ディック・マードックを馬場はどう評価していたのか?(後編)

こんにちは、みやけです。今回も昭和プロレスの話、ディック・マードックの検証企画の後編です。

全日本プロレス時代のマードックに焦点を当て、「再三シリーズのエース格として来日しながら特に大舞台が無い扱いを繰り返していたのはなぜか?馬場の思惑はなんだったのか?」という点を推測し、更にはマードックの日本マットへの想いも推理してみる、というものです。それでは後半戦スタート!(笑)

ディック・マードックを馬場はどう評価していたのか?(前編)

10回目 1977年7月8日~ サマーアクションシリーズ

私が全日本の全歴代シリーズの中で最も地味!最も話題が無かったシリーズと陰で呼んでいるこのツアーにマードックはエースとして参戦しています。その他の参加メンバーはジ・アベンジャー、エド・ウィスコスキー、ドン・ムラコ、エル・トロ・アルゼンチーノの5人という少数精鋭。更に最終戦のみ大木金太郎が参戦しました。

このシリーズ、いったいどんなビッグマッチが行われたのか?PWF、インタータッグ戦はいずれも開催されず、最終戦の東京・品川スポーツランド・ゴールドホールにて鶴田の試練の10番勝負第8戦&アジアヘビー級&UN戦となる鶴田対大木戦のみが行われ、マードックはひたすらタッグマッチをこなすのみでした。

そして前シリーズに日本マットデビューを果たした天龍源一郎が猛プッシュされ、開幕戦では鶴田をセミ前に抑え、セミでアベンジャーとシングルマッチを行い見事勝利しています。更にマードックとのシングルマッチも組まれ、惜しくも初黒星を喫しています。

京都・西舞鶴高校裏広場 30分1本 ディック・マードック(15分9秒体固め)天龍源一郎

更にこのシリーズは2番手外人として時期NWA世界王者候補としてエド・ウィスコスキーが初来日。タッグでは馬場から1度だけフォールを奪っています。彼の当時の動画は確認できませんが、開幕戦を報じるゴング誌を見るとかなり体の線が細い!ジノ・ヘルナンデスぽい体格であり、ちょっと全日本のヘビー級戦戦に入って行くことは難しかったのではないかと思います。後年そこそこ体は大きくなったようですが。。。

このシリーズは大会場での開催もなく、ビッグマッチは鶴田対大木戦のみ。盛り上げようが無いシリーズだと思います。馬場は何故大試合を行おうとしないのか?翌年カマタに虎の子のPWF王座を奪われる訳ですが、このあたりから腰痛はひどくなっていた可能性はあります。

体調不十分の為、大エースでありながら責任が問われるビッグマッチは回避したのでしょうか?しかし鶴田対大木戦も大木の参戦が1試合のみですから煽りようが無いと思うんですよね。このあたり前にも書きましたが、中盤で鶴田対マードック戦を組み、鶴田が快勝していれば大木戦への弾みがつくと思うのですが、そういう感覚は無かったようです。

結果、マードックはまたもや連日タッグでお茶を濁すのです。

11回目 1978年4月22日~ エキサイトシリーズ

次の来日は約1年後、今回もマードックはエースとして来日。同時期にはパット・オコーナー、ネルソン・ロイヤル、アル・マドリルら。後半戦に大木&ドクの韓国子弟コンビが参戦。更には時期NWA世界王者の最有力候補と言われてたリック・フレアーが鶴田のUN王座を狙って全日本に初参戦します。

このシリーズの目玉は最終戦の大阪府立体育館で大木・ドク組の持つインタータッグ王座に馬場・鶴田組が挑戦する試合。後は青森・野辺地町立体育館という中々に地方色が強い会場で鶴田がフレアーの挑戦を受けるUN戦。翌シリーズカマタにPWF王座を奪われることになる馬場は相変わらずビックマッチをこなさずマードックとの一騎打ちは相変わらず組まれません。

このシリーズの使用会場は「いったいどこでテレビ収録を行ったんだ!」と言いたくなるような小さめの会場が多く、馬場の体調不良と共に全日本プロレスの興行会社としての体力の低下も見て取れます。

このシリーズのマードックはUN戦ではフレアーのセコンドに付く等大物の貫録を見せつけましたが、自身は黙々タッグマッチをこなし(鶴田と1回、デストと2回地方でシングルマッチが組まれる)、最終戦の府立でもオコーナーと組みデスト・羽田組とのタッグ戦でお茶を濁しました。「何しに来たのか分からない来日」は加速していくのです。

12回目 1979年4月20日~ NWAチャンピオンシリーズ

次の来日は1年後。しかしマードックの扱いはまたもやエースとして馬場の首を狙うようなスタンスではなく、直近2回と似た感じの存在でした。参加メンバーは前半戦にジン・キニスキ―、全戦参加にマイク・シャープJr、ラリー・レーン等というやや地味なメンバー。しかし後半戦にNWA世界王者のハーリー・レイスが参加します。

馬場はこの年2月にシカゴでPWF王座をブッチャーから奪回していましたが、以降9月まで防衛戦は行われていません。「防衛戦期限は半年以内」というPWF規約に沿うのなら、アジアタッグ王座を再三返上させられた極道コンビのように「王座返上」案件のはずですが、そこはスルーしてしまうのです(笑)このシリーズはそれなりに中型クラスの会場もあり、マードックの挑戦を受けてやればいいのですが。。。

そしてこのシリーズ、鶴田のUN王座にはキニスキーの挑戦が予定されていました。しかし来日した雷大王は無残なほどやせ衰え、皺皺の顔も相まって風貌はおじいちゃんそのもの!動きはそこまでひどくなかったようですが、ゴングには「こんな姿は見たくなかった!」と書かれてしまいます

その為かどうか、。UN挑戦は「コンディション不良」を理由にキャンセル。ピンチヒッターにはシャープJRが指名されます。私は開幕戦のシャープの動画を見たことがあるのですが、身体は仕上がっていますが、動きはかなり固くまだまだUN王座に挑戦するレベルではなかったように思いました。

ちなみにUN戦が行われた長崎大会では、馬場はキニスキーとセミ前でシングルマッチを行いリングアウト勝ちを収めます。どう見てもこれが最後の来日になりそうなキニスキーでさえもピンフォールで葬らないあたりは馬場独特の”気配り”を感じてしまいます。次のシリーズでは助っ人参戦を終えたデストロイヤーに3カウント負けを喫してしまうのですから。。。

ここでUN挑戦は何故マードックでなかったのか不思議なのですが、マードックは最初からシリーズ内でのNWA王座挑戦が決まっており、挑戦順番は鶴田に次ぎ2番目。もし鶴田が王座奪取するとその後のマッチメイクがタイトルの格の問題を絡めてややこしくなりそうだから組まなかった?。。。まあ、当時はそこまで深読みするファンは少なかったと思いますが。。。

しかしマードックはNWA世界戦では王座奪取はなりませんでしたが、中々の好試合を見せファンをうならせます。馬場もこれは「良い試合」と評価しており、マードックの秘めた実力を誇示するシリーズにはなりました。

5月8日千葉県立体育館  ハーリー・レイス(1-1)ディック・マードック

①マードック(14分45秒体固め ブレーンバスター) ②レイス(20分46秒体固め ダイビングヘッドバット) ③時間切れ

13回目 1980年2月14日~ エキサイトシリーズ

前回のNWA世界王座挑戦で良い試合を行ったご褒美か、マードックが完全にシリーズの中心となったシリーズです。その他の参加メンバーは、トーア・カマタ、ドスカラス、カリプス・ハリケーン、ドクトル・ワグナーJR。そして若き日のリック・マーテルも参加しました。

シリーズ前、ゴング誌は「マードックが日本人側からの参加を熱望!」なる記事を掲載します。以前からベビーフェイス人気が高かったマードックの日本陣営からの参加の話は単発的に出ていたようですが、今回はゴング見開き1ページを使っての特集!

結局馬場の「ドスの日本陣営からの参戦は既に決まっているしあまり多すぎてもなあ」との判断で没になり、一転UN王座挑戦になるのですが、この「マードック推し」は王座奪取の布石だったのかも知れません。しかし後楽園ホールでのカマタとのタイトル戦で入場してくるマードックへの歓声を見ると彼の当時のベビーフェイス人気は結構なものだったと思われます。

元は馬場の新入場テーマと予定されていた「チャンピオン」もマードックに実に合っている!その前に鹿児島大会にて見事2フォールで鶴田を破りUN王座奪取!大村でのタイガー戸口の挑戦も退けますが、黒磯公会堂での鶴田との再選で敗れ王座を所持しての帰国はなりませんでした。

しかし重箱の隅をつつくようで申し訳ないですが、それぞれのフィニッシュに不満が残るのです。鹿児島ではコーナーに追い込まれ鶴田が突進、しかしマードックは寸前躱し鶴田は右ひざを痛める。そこのマードックがのしかかりインディアンディスロック。そのまま身体を覆いかぶせ3カウント。

黒磯ではパイルドライバーを狙うも鶴田にリバーススープレックスで跳ね返され、その勢いでコーナー最下段ターンバックルに顔面を強打。即抑え込まれ3カウント。。。なんか言い訳がましいというか理屈っぽ過ぎるんですよね。

心身ともに最盛期である2人。取って取られてのイーブンなら、もっと真っ向からぶつかり合っての1勝1敗で別にマイナスイメージにはならなかったと思うのですが。。。その後の扱いを見ても馬場はこれを機にマードックをエース外人として重用する考えはなく、「元王者」の箔を与えたかっただけではないかと思います。

14回目 1979年10月9日~ ジャイアントシリーズ 

旧友テリー・ファンクと共に後半戦特別参加したマードック。テリーは来日時の記者会見で「3年後の引退」を突然宣言してしまいます。会見の横でテリーに寄り添うマードック。。。私はてっきりこのシリーズは毎日のようにテリーと組みブッチャー軍団と血みどろの抗争を行っていた、、、と思い込んでいましたが、テリーとのタッグは6人を含め4回しか実現しておらず、例によって連日中堅とシングルマッチを行っていたのです。

なお、「絡みNG」であるはずのブッチャーとの試合は計3回組まれています。これについてゴング誌は特に指摘はしていないのです。

①10月28日紋別市スポーツセンター テリー・マードック(18分33秒両軍リングアウト)ブッチャー・カマタ

② 10月29日北海道・中標津体育館 テリー・鶴田・マードック(2-1)ブッチャー・カマタ・アステロイド 1⃣(17分50秒両軍リングアウト) 2⃣ 鶴田(6分33秒片エビ固め)アステロイド

③ 10月31日群馬県スポーツセンター テリー・マードック(15分55秒両軍リングアウト)ブッチャー・カマタ

このシリーズはタイトルマッチのオンパレードで参加したブッチャー、テリー、ロビンソン、マクダニエル、カマタはいずれもタイトル戦に臨みましたが、マードックは一切無。なおかつ特に大物とのシングルマッチを組まれることもありませんでした。

後年しつこく言われる「ブッチャーとの絡みNG」ですが、私的には新日移籍以降急に言われだした印象があります。確かに一旦はシングルマッチを回避しましたが(そもそもこれは想定通り?)以降2度シングルマッチを行っており、全日本でもそれなりに絡んでいる経緯を含め「絶対NG」といった強いものではなく「できれば絡みたくない」程度のものではなかったかと推測しています。

どちらかと言えば「レスラーへの気配りを欠かさない馬場さん」を馬場派マスコミがアピールするため、「なるべく一緒にならない配慮」をえらく強調したように思えるのですよ。

いずれにしても、UN王座奪取直後という今後においての重要な意味を持つこの来日が「テリーの後見人」という微妙な立ち位置での参加に終わってしまったことで、「前UN王者」の肩書も薄れる結果となりました。鶴田もブッチャーにUNを奪われましたし。

15回目 1980年2月11日~ エキサイトシリーズ

そしてマードック全日本最後の参加となるシリーズです。他のメンバーはキラー・カール・コックス、マリオ・ミラノ、ドスカラス、ツイン・デビルス等。そして前半戦にNWA世界王者ハーリー・レイスが参加します。しかしレイスとのセット来日が多いなあ、、マードックは。

このシリーズ、私はひそかに”コックスさよならシリーズ”と呼んでいます。最終戦の千葉大会で馬場のPWF王座に挑戦したのはマードックを差し置いて老雄コックス!この時期はアメリカでもマネージャーと兼業状態になっており、リタイヤがちらつきだした頃だと思います。

同時期新日本ではタイガーマスクがデビューする新時代に突入しているのに、片や全日本は初来日が豊登エース期であるレトロなコックスをエースに登用するとは、、、、。ただしコックスは馬場と波長が合ったようで、日プロ時代サンマルチノ、エリック、ブルーザー等の猛者の挑戦を受ける最中にその一角として何度もインター王座に大会場で挑戦しています。

全日本参戦後もマスクマンに変身する事もいとわず忠誠を尽くしてくれたことに感謝の意を示したかったのでしょう。事実このシリーズ以降コックスは米マットでもほぼリタイヤ状態となります。その逆にマードックはいつものようにタッグか中堅とのシングルマッチ。津ではレイスとの一騎打ちが組まれますが、何故かノンタイトル戦。このマッチメイクも意味が分かりませんね。あるとしたらなんらかのアピールなのか。。。

マードックは洞爺湖大会ではコックスと組み馬場・鶴田と対戦。3本目でコックスが凶器攻撃で馬場から3カウントを奪いタイトル戦の煽りのアシストをします。しかし結局は例によって「何しに来たのか良く分らない来日」になったという印象はぬぐえません。

そしてマードックはこの後、ブッチャーに続くように新日本への移籍を表明します。ブッチャー・戸口の引き抜きには激怒した馬場ですが、過去の書籍を見返してもマードックの移籍に関しては淡淡と受け止めており「まあ、仕方がないか」といった感じなのですね。契約的にも問題は無かったのでしょう。

15回、ほぼ全てをエースか2番手として来日し、まだまだ衰えも見せていなかったマードックに対して結構冷たいように思えます。ディック・マードックという選手は全日本プロレスにとって何だったのか?それではいよいよ、馬場がマードックに対してどう思っていたか?演繹的推理を行っていきたいと思います(笑)証拠・証人は一切ありません!(笑)

馬場はマードックの売り時を計っていた!?

馬場は最初はマードックをエース外人の一角に入れ込むことが出来るかテストしていたように思えます。しかし集客力がイマイチであるのが徐々に分かってきたのでしょう。しかも馬場自身の体力の衰えが顕著になっていたため、対戦する相手はマードックのような本格派レスラーではなくブッチャー・カマタのようなビュンビュン流血しながらラフオンリーで攻めこむレスラーの方が試合を組み立てやすかったと思われます。

ですので、馬場的には「強いことは強いが今の全日(というか馬場)にとっては活かすのが難しいレスラーだ」と感じるようになったのではないでしょうか?またかとお思いかも知れませんが「16文が行く」にはマードックについて以下の記載があります。(マードックはとっくに新日に移籍後)

「~マイ・ペースで勝手な事ばかりしてくるレスラーだが、こっちも勝手なことが出来るのでやりにくい相手ではない。やりがいのある相手の部類。底意地の悪いところは一つもなく、性格も頭も決して悪いとは思わない。」「ローデスと比較しても何から何までマードックが数段上」

ローデスの評価はともかくとして、馬場のこの「勝手な事」という言葉の意味をどう解釈していいのか未だによく分かりません。でも実に含蓄のある表現だと思います。私としては「プロレスの基礎は出来ているが、リアクションが大げさな部分等が自分のプロレス観と合わない」という事が言いたいのかな?と思うのです。

マードックは確かに相手の技を受ける時はきっちり受けますが、オーバ―アクションがすぎるきらいがあり、技のリアリティに欠ける気がするのです。それを言うならテリーやレイスもそれ以上オーバ―アクションかも知れませんが、マードックが試合最中に見せる笑顔が日常生活の延長のようなそれっぽいので、そのあたりが馬場のプロレス観と合わないのかな?とも思います。テリーなんて相当なオーバーアクションですが、全身全霊をこめて全力でやるんでふざけているようには見えないのですよ。

話は一気に飛びますが、1982年に勃発した新日と全日の引き抜き戦争。これは色々なプロレス研究者の方々から「これは馬場と猪木がテレビ局から更にお金を引っ張る為に裏で手を組んで仕掛けた出来レースだった」という説が多々あります。

愛読書である「ミック博士の昭和プロレスマガジン」の主張は実によく調べ上げ考えが練られていて見事なものです。私もその方々の主張に大きく賛同する1人ですが、その流れで私が推理するならば

馬場はいずれ引き抜かれるであろうマードックについて、「報復で引き抜き返す際それが超大物であったとしても均等が取れるようマードックの価値を自分が思う以上に高めておいた」という説です。ブッチャーを引き抜かれたらシンを引き抜く。これは双方イーブンに思えます。そしてマードックを引き抜かれたらハンセンを引き抜き返す。

当時の状況を考えたらハンセン=マードックとはとてもならないでしょうけど、馬場からしたら「マードックは全盛時で元UN王者。自分も1回しかフォールできていないし、ファンの人気も高い。ハンセンはNWFのベルトを1回巻いただけだし、米マットを含め実績には乏しい。人気は高いかもしれないがマードックと同格」と強引に言いくるめる腹だったのかも知れません。

そして新日本は泣く泣く(?)その馬場の意を汲んで、5年以上も”エース外人”としてマードックを重宝したのかも知れません。マードックがIWGPの決勝に進出したのは驚きましたよ。当時外国人レスラーが枯渇していた時代とは言え、結局猪木にはタッグを含め1回もピンフォールを奪っていないマードックをそこまでの扱いをするのですから。。。

まあ、当時の全日本がそこまで長期的視野に立ってマードックの売り出しのタイミングを計っていた、、、というのは想像が過ぎるかもしれません(笑)ただし、風来坊気質であっけらかんとしたマードックは「いずれフラッと全日本からいなくなるんだろうな」と馬場が考えてもおかしくないと思います。

その際、報復としての引き抜きを仕掛ける際、釣り合わない超大物を取り返しても非難されない様マードックの価値を高めていた、というのが私の推理です。新日移籍後もためらいなく馬場夫妻の元に押しかけ、食事をおごってもらっていたというマードック。その馬場との不思議な関係性は双方割り切っていたからそうなったのだ、という気がするのです。

最後にマードック自身がまぜ再三日本人サイドからの参戦を希望したかの推理です。これはまあ、推理というほどでもないのですが、

試合後すぐホテルに帰れて飲みに行ける日本ツアーは彼の生き方にマッチしていたから

というものです。ご存じかと思いますが、米マットでレスラー生活を送るにあたっては、試合会場に現地集合現地解散が必須。試合後数百キロの移動は普通にある訳です。試合後の一杯”ミラータイム”を何より楽しみしているマードックからしたら毎日宿舎が確保されている日本ツアーは願ったりかなったりだったでしょう。

もちろん、彼がそのためだけに日本マット参戦を熱望していた、と言いたいのではないですが、自身のやりがいを満たす為には日本でのツアー参戦は最適だったでしょう。更には1970年代後半の全日本マットは日本人選手が常時不足気味でしたから、マードックも「入り込める隙間があるはず」と思ったのではないでしょうか?日本人サイドだと来日頻度も増えそうですしね。

そういえば新日本移籍後、全日本では輪島がデビューして1年経過後スランプに陥った際、マードックが「全日本に復帰して輪島のパートナーになり横綱をフォローしたい!」という要望をぶち上げた事があります。

当時の状況を考えれば新日本同様全日本も外国人不足。エース外人の一角として復帰の方が現実味があったと思うのですが、なぜが日本人サイドからの復帰を希望しました。結局この話は実現しませんでしたが、マードックが日本マットをどう見ているかが良く分るコメントだと思います。

このあたりは全て私の妄想にすぎません。マードックは一時ブラックジャック・マリガンと組んでファンクスからアマリロの興行権を買い取りプロモート業をやってみたようですが、ほどなく頓挫しています。彼にとってはやはり勝敗・タイトルマッチなんぞ関係なしにプロレスの試合を自分がやりたいようにやって、試合後は炉端焼店に直行!というライフスタイルが一番の望みだったのでしょう。

でもそのあたりが馬場にとっては不満だったのではないかと思います。

ま、こんなところです。長々とした回になりましたが読んでいただきありがとうございました。それでは、また。

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