いとしのディッキー 愛すべき喧嘩番長

こんにちは、みやけです。今回は昭和プロレスの回です。以前に書いたもののデータが飛んでしまい再度なおす企画?なわけですが、1970年代後半から1980年代中盤まで全日本プロレスで活躍した”喧嘩番長”ディック・スレーターについての私の想いを書く回です。

”右利きテリー”とも称された彼のファイトスタイルは、公私ともに私淑していた兄貴分のテリー・ファンクにそっくり。以前書いたように私はテリーの大ファンでもあったのですが、スレーターもまた大好きな選手でした。いや、テリー以上に好きだったと言っても過言ではなかったのです。

もちろんスレーターはファンク一家(グループ)の長男坊的存在であり、ベビーフェイスとしての人気は非常に高く、一時はポストテリーと称されたこともありました。全日本プロレスが80年代に作成していた公式カレンダーにもスレーターは一人で単月を飾っていました。しかし明らかに全日本プロレスのトップ外人でありながら、彼自身のテーマソングは長い間固定されず、単独エースでの来日も結局なかったという何とも不思議な存在でした。

なぜ私がスレーターを好きだったのか?思うに彼は鶴田と似た部分があるのです。私がジャンボも大変好きであったのですが、双方共通しているのですが、本人は才能があり、やれと言われれば何でもできてしまうのですが、どうもファンのニーズをキャッチする能力が欠けており、というか微妙にずれており、肝心なところで見ている方がシラ~っとする行動を取ってしまうところがあると思うのです。(笑)

昭和プロレスファンがスレーターを語る際、必ずと言っていいほど引きあたりに出されるのが1981年に交通事故に遭ってしまったことについてです。その後平衡感覚を失う後遺症が出たため、急な欠場をしたりファイト内容に精彩を欠くことが多くなりました。同年のサマーアクションシリーズではビル・ロビンソンと組んでインタータッグ王座に挑戦する予定でしたが、首の傷みが悪化しタイトルマッチ直前で緊急帰国。スレーターの代役にはその当時壁に突き当たっていた天龍源一郎が指名されました。

この千載一遇のチャンスに天龍は開き直ったような素晴らしいファイトを見せ、それまで遠慮していた延髄切りを馬場の前で披露する等大暴れしました。この試合を境に天龍がトップスターへの階段を上るきっかけとなったのはご承知の通りです。それ以降スレーターが地盤沈下していったのと対照的な光景でした。

しかし交通事故さえなければスレーターはNWA王者を奪取する事が出来たのか?全日本のエース外人としてブレイクする事が出来たのか?前者はともかく後者については私はそうは思わんのです。正直スレーターはプロレス頭が足りていなかった!そして日本マットについても贔屓にしていながらも理解しようとしていなかった!そう思うのですよ!

プロレス評論家の流智美氏の名著「超一流になれなかった男たち」では”狂乱の貴公子”リック・フレアーについて「日本には日本向けの戦い方があることを最後まで理解できなかったのか、もしくは理解しようとしなかった(多分後者)」と評していますが、これはスレーターにこそ当てはまる!バックドロップ、スピニングトーホールド、パイルドライバー、ダブルアームスープレックス、、あたりがフィニッシュホールドに用いた技ですが、ディッキーが最後までこだわったのがトップロープからのエルボースタンプ

これはシチュエーション的に、相手が意識朦朧でふらふらと上半身は無防備なままコーナーポストに近寄ってきたところをトップロープに上っていたスレーターが相手の脳天にエルボーを落とす、というものでかなり状況が限定されたリアリティにかける技。相手が近寄ってくることが前提な訳ですから。まだこれが70年代だったらこの技も”アリ”でしょうけど、スレーターが交通事故に遭った時期というのは新日本では初代タイガーマスクがデビューしたころ。

「相手の技を受ける事はダサい」と思われかねなかったこの時代にスレーターはこのクラシカルな技に固執した訳です。事故の後遺症で動きが制限されてきたなら新しいフィニッシャーを考えるべきだったと思うのですが、結局スレーターは延々この技をフィニッシュに使用し続け、全日本最後の来日となった90年世界最強タッグでも寺西勇からこの技でフォールを取っています。

ファンクスの弟分として比較されがちなテッド・デビアスにしてもフィニッシャーが定まらない選手でしたが、それでもハンセンとタッグを組み始めると荒々しさが印象付けられるパワースラムを日本では多用しイメージを作っていった感があります。スレーターは昔気質の性格が強すぎるゆえか、動きやラフファイトでは会場を沸かせても、最後は観客の気持ちをピークに持ってこれず尻すぼみになってしまう、これは事故前も後も同じであったような気がします。

そして事故の後は、方向感覚が狂うためか「オイオイ!」と言いたくなるような動きを見せる事が多くなりました。元々テリーが多用した酔っぱらいのようなふらふらした足取りでファイトすることを模倣していましたが、それがガチであるのか?と思われることが多かったですし、動きが実に雑になってきました。

一番有名なのは、1982年世界最強タッグ最終戦での蔵前大会のセミ、ハーリー・レイスと組み馬場・鶴田組を追い込みますが、最後の最後でレイスと同士討ちになり、スレーターはピンフォール負け、、、まあそれはいいとしても、馬場の頭をレイスにぶつけるつもりが切り返されたところはどう見ても自分からレイスに突っ込んで行っているんですが、、、

そしてもうひとつ!全日本最後の参加となった上記の90年世界最強タッグ決定リーグ戦の開幕戦。ジョー・ディートンと組んで馬場・アンドレ組と対戦する訳です。組み合わせ的にはどう見てもスレーター組が露払い役な訳で、馬場・アンドレ組の強さを見せつける試合であるべきだと思うのです。しかし試合中盤、馬場をコーナーに押し込みディートン、スレーターがコーナー対角線を走って馬場にエルボー!

これがもろに馬場に入ってしまい、馬場の動きが急に緩慢になる訳です。人気コンビのリーグ戦初戦にしては微妙な雰囲気で試合は終了してしまいました。まあ、この一件見はディートンに一番非があると思うのですが、スレーターがこれが最後の全日本参加になった事を思えば「あいつはもう使えんわ!」とサジを投げられてしまったように思えるわけです。

そして、、、なんだか悪口のオンパレードになってしまうと思うのですが、馬場からの評価も交通事故以前からそんなに高いと思えなかったですね。

1979年のチャンピオンカーニバルではテリー、馬場、ブッチャーを抑えて準決勝に進出する訳ですが、これもまた決勝の相手が鶴田である故大穴的存在のスレーターを無理やり引っ張り上げた感があります、しかしここで期待にそえる活躍をしたというのであれば、次の来日ではそれなりに良い待遇で活躍の場を与えるのではないかと思うのですが、来日は半年後の世界最強タッグ決定リーグ戦。来日前から人気沸騰していた”南海の黒豹”リッキー・スティムボートとの人気者コンビでの出場でした。

これはこれでそれなりの待遇を与えているかもしれませんが、接点がある訳でもなかったリッキーとのコンビは何となく使いようがないので強引に組ませた感があるのです。そして翌年のチャンピオンカーニバル。前年準優勝のスレーターなら、「今年こそ優勝!」的なマッチメイクがなされても良かったと思うのですが、最終戦で夭死されたリーグ戦カードはセミ前でのジャック・ブリスコ戦、、、当時の全日本なら最終戦セミ前で戦っている選手が優勝するはずはありませんし、結局このリーグ戦は事故で不参加となるのですが、参加したとしても昨年以下の扱いだったろうな、と思わずにはいられんのです。

更に悲しい事実は続きます。スレーターが活躍した頃の全日本のタイトルマッチはまともに決着が付いたためしがなくたとえついたとしても他者の乱入、ジョーさん失神、もしくは行ってこいのパターンであるのです。我らがスレーターは交通事故の後、来日のたびにシングルマッチ挑戦もしくは大会場でのビッグマッチに出場しているのですが、ことごく言訳のしようが無い完敗を喫しています。

1981年 8月3日砂川市体育館 UNヘビー級戦  〇鶴田(2-1)●スレーター ※1本目スレーター・ブレーンバスター 2本目鶴田・ジャンピングニー 3本目鶴田ギロチンドロップ

1982年5月26日 旭川市総合体育館  UNヘビー級戦 〇鶴田(20分6秒 首固め)●スレーター ※4の字に来るところを丸め込む  

1983年6月8日 蔵前国技館 特別試合 〇天龍(13分49秒 逆さ押さえ込み)●スレーター

1984年7月25日 福岡スポーツセンター UNヘビー級戦 〇天龍(25分18秒 片エビ固め)●スレーター ※全日お得意のフライングボディアタック返し!

1985年4月17日 長浜市体育館 インターヘビー級戦 〇鶴田(21分29秒 逆さ押さえ込み)●スレーター

、、、大半がクイックとはいえことごとく完全ピンフォールで負けているのです。この時期はトーア・カマタ、上田馬之助選手あたりでもタイトルマッチは不完全決着でお茶を濁していたのに、、、喧嘩番長はここまで容赦ない仕打ちを受けるとは。。。

そしてこのまでキツイ扱いを受けているのであるなら、「スレーターが大金星を挙げた試合」「スカッと完全勝利を挙げた試合」は何があったか?と考えるわけです。しかしこれがない!そのシーンが全然思いつかないのです。まず、期待された1974年初来日第一戦ではシングルで鶴田と時間切れ引き分けに終わっており、以降も大金星を挙げるにあたっていません。しかしその試合内容が評価されたのか最終戦の日大講堂では馬場とシングルマッチを行っています。

スレーターが大物に勝った試合を全て当たってみましたが、該当するのは以下の2試合。彼が1980年鶴田とチャンピオンカーニバル決勝で激突した直前の試合です。

4月28日 大分県立体育館 ●鶴田(22分40秒 首固め)〇 スレーター

4月30日 長崎国際体育館 ●馬場(11分22秒 リングアウト)〇 スレーター  ※シーク乱入に気を取られる

流石に御大相手に完全ピンフォールはもらえませんでしたが、スレーターを無理やり?決勝に行かせるため3日間の間に連続して大金星をゲットしています。ただし、両試合ともノーテレビ!「組み合わせ上止む無くこの結果にせざるを得なかっただけで、この事実は出来ればあまり大きく報道されてほしくない」という事でしょうか?(笑)

結局スレーターは常に利用されてきたとしか感じられないのですよ!単独エースでの来日は1回もない!というか1週間限定でも「エース的存在」の期間もない!スティーブ・オルソノスキーでさえあるのに!弟分デビアスは負ける事も多々ありましたが、ドリーのインターやレイスのNWA王座に挑戦したり大事に大事に扱われてきた印象があります。しかしスレーターは何も実績を残していない!!逆に考えれば印象だけで全日本トップ外人の位置をキープしてきたとも考えられます。

ただし不幸な交通事故もありましたが、スレーターの”プロレス頭の古さ”が「あと一歩」の部分を打ち破れなかったように思えます。しかしプロレスというのはただ勝てばいいものではありません。スレーターに勲章はありませんでしたrが、一つ一つの仕草、行動にファンの胸を打つ部分が少なからずあり、長年トッポレスラーの位置をキープ出来たのだと思います。

1983年にジャイアント馬場が出版した「16文が行く」という本があります。全日本にかかわりがある外国人を一人一人評価した本です。流石に馬場自身がペンを取ったとは思いませんが、後年何度も聴かされる馬場自身のプロレス感が明確に語られており、毎違いなく馬場に細かいヒアリングを行っており、資料価値の高い本です。ミル・マスカラスやビル・ロビンソンについてはぼろくそに腐しています。そしてディック・スレーターに関してはこんな記載があります。

スレーターは自分の出世のために計算を立てる事をせず、情で動いてしまう事が(全日本マットでドタキャンが発生するとアメリカのスケジュールを蹴ってでも日本に来日してくれる)。ちょっと浪花節的で、日本のファンには「泣かせる男だ」と好感をもたれてやはり今のままではプロモーターが安心して任せるわけにはいかない。

これは1982年の最強タッグでハーリー・レイスのパートナーだったジミー・スヌーカがニューヨークへ行ってしまったのでスレーターが急遽パートナーの代理として来日した件を話しているわけです。自分でドタキャンさせておいてひどい言い草ですが(笑)スレーターの人間性を実に良く表現したコメントだと思います。 

人間関係で色々と苦労した人間ほどプロレスファンになりやすい、と私は思っています。プロレスとは見れば見るほど不条理なジャンル。それ察知して効率的に動くものもいれば、ただでさえ不条理なのにそこにまた「筋を通そう」とする生真面目な人間も出てくる訳です。でも傍から見ると後者に魅力を感じる訳ですよ。屈折した傍観者は屈折した演者にどうしても目が行きますからね。

スレーターは、全日本に参戦したばかりの長州の鼻っ柱にガチのパンチを入れてしまいその後しばらく呼ばれなくなったり、契約問題で全日本を愚弄したハルク・ホーガンが日本で泊っているホテルにテリーと一緒に「ぶん殴ろう」と襲撃に行ったり(ホーガン不在の為未遂)いろいろと想像を膨らませてくれるエピソードがあります。

私は昭和プロっレスファンではありますが、「誰だれはガチでは最強」「誰だれは実はシュートの達人」なんて話には全く興味がない人間です。観客が気が付かないところで相手の関節を取りまくって悦にいるビル・ロビンソンよりトーア・カマタが血まみれで場外を練り歩くシーンに金を払いたい人です。

それを考えるとディック・スレーターって人もまたテリー同様プロレスの申し子!あらゆる状況において自分のキャラクターに徹底していたと思います。それゆえ自身のフィニッシュホールドについてはアップデートできなかった。いややろうという考えに及ばなかったのでしょう。でも人ってそういうものですよね。

スレーターは怪我の後遺症もあってか、晩年はあまりいい生活は送れていなかったようです。2017年に67歳で亡くなられています。あまりに早い死でした。

やはりスレーターは「明るく、激しく、楽しい全日本」より1970年代~80年代中盤「なんでもありのカオスの全日本」が似合います。私もその時代の方が好きです。オリンピアやりマシンガンにシンパシーを感じます。

結局長々と書きましたように。「スレーターはどう凄かったのか?」という説明には一苦労してしまうのですが、逆にそれが彼の魅力です。愛すべき喧嘩番長はいつまでも私の心に生き続けます。

今日はこんなところです。それでは、また。

#全日本プロレス

#ディック・スレーター

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