キネマの神様(沢田研二・菅田将暉主演)を改めて観る

こんばんは、みやけです。先週沢田研二さん、菅田将暉さん主演の映画「キネマの神様」がNHKBSプレミアムで放映されました。

私は映画館には2回観に行きましたが、その時はジュリーの姿をスクリーンで久しぶりに見られるとあって(というか封切したばかりのジュリーの映画を見るのは初!)かなり浮ついた気分で楽しんだのですが、時が経ち改めて観ると色々と新たに考える事もあったので今回書き留めておこうと思った次第です。

まず第一に、収録が正にコロナ過に入らんとする時期に行われた為か、「緊急事態宣言が発令される」とか、1席開けの映画館の席とか、画面に映っている人全員がマスクをしている姿とか、今となっては懐かしいとも言える風景が写されていたのが印象に残りました。もちろんこの時期をリアルタイムに表現する、という目的もあったかとは思いますが、割とそのシーンがくどい様に感じたのは制作サイドの”無念さ”も感じとれたのです。

ご承知のように、この映画は当初故・志村けんさんが主役として企画されたもの。志村さんと映画を撮れなかった、それどころか永遠に失ってしまった無念さもあったでしょうし、過去の状況を細かく再現したかったと思うのですが、大幅に制限された中での撮影の連続となった無念さもあったと思います。その静かな怒りがくどくカットインされたコロナ過の風景に現れていたようにも思います。

そして今回気づいたのが菅田君とジュリーがセリフを述べる際の声の抑揚というか間の取り方が酷似しているという事。声が似ている、とかそういう事ではないんですよ。なかなか表現しにくいのですが、菅田君の話の間とジュリーの話の間(ま)がほぼほぼ同じなのです。

というか同一人物な訳ですから一つの設定として実際にそのような演技指導があったのかもしれません。仮にそれが事実であったとしても不思議ではないのですが、、、それにしても合いすぎ!

たしかこの撮影は菅田君の収録がほぼ終了してから、志村さんの代役がジュリーとなりジュリーの撮影が行われたはずです。という事はジュリーが似せたのか、、、だとしたら私にとっては驚愕の合い方なのですが、、、

そしてですね、映画の全体像を見るにあたって、菅田君・ジュリーが演じた”ゴウちゃん”について考えてみました。ゴウちゃんは絵に描いたようなクズ男なのです。まあ、青年時代はそれでもその一途な生き方は輝いて見えるのですが、老年期は、、、あれだけ世話になった妻、娘、親友、孫に囲まれながら青年時代微妙な関係で終わった売り出し中の女優(園子)の幻を見ながら亡くなっていくのですから。。。。全くひどいひとですわな(笑)

ただしかし、ゴウちゃんが本当に一番好きだったのは園子(北川景子)だったのかと言うとそういう訳でもないと思うのです。淑子(永野芽郁)さんよりは上だったと思うのですが、、、、それにしては強い熱が感じられない!ゴウちゃんが一番好きだったのは”映画”だったのだと思います。

ゴウちゃんは現状の映画界を「古臭い日本的情緒を表現するのはウンザリ」といいつつも、やはり映画で自身の夢を実現する事を熱弁します。この作品は松竹映画100周年記念の映画です。日常生活で出会う人々、いつも見る光景、退屈なその日その日が流れる中で唯一人間に感動を与えてくれるのが映画である!そう結論づけたかったのでしょう。。。。

いやいや!それだけでは面白くない!ゴウちゃんが本当に欲するもの、それは既存の概念の映画ということではなく、「スクリーンの中から主人公が飛び出してくる」という発想の、言わば”夢想癖”が彼の本質だと思います。私もかなりの夢想家なのでよく分かるのです。(笑)

夢想”とは何か?”妄想”とどう違うのか?妄想とは現実的ではない考えを信じてそのことに心がとらわれてしまう状態です。どちらかといえば精神疾患・パーソナリティ障害の用語の印象が強くマイナスなイメージで使用されます。逆に夢想とは?夢のようにあても無いことを空想することを言います。正に若き日のゴウちゃんそのものです。

ゴウちゃんは映画という仮想の世界の更に先にある更に更に突拍子もない夢の世界を実現する事を追い求めている訳です。普通・常識で考えればゴウちゃんのような人間は社会から相手にされない問題児。でも彼のようなハチャメチャ人間は大変魅力的で、多くの人から好かれ、必ず救おうとする人が出てきます。

好きという感情は理屈では説明できませんかし、自己肯定感の低い人にとっては自分のやりたいように行動している人間は非常に頼もしく見えるものなのです。

この「キネマの神様」は、非日常をいとも簡単に実現してしまう映画の素晴らしさを訴えながら、ゴウちゃんというキャラクターを通じて、奇想天外な事を考え、実行する行為を傍から見る事は何と魅力的かという事を訴えたかったのではないかと思います。どう考えてもこの映画は一見映画というジャンルに敬意を表するようでありながら、ゴウちゃんという人間を通じて夢想する行為こそがエンターテイメントだと訴えているようにも感じるのです。

その考えがベースにあってこそ、いい映画になるという。。。思えば志村さんもジュリーも、どんなに立場が偉くなっても奇想天外な事ばかり考え、実行し、時には叩かれ、時には絶賛され、、、ゴウちゃんそのものではないですか!

志村さんの代役をジュリーにお願いしたのは単に親友だったと言うからではなくこの主人公ゴウちゃんを演じるにあたってやはり適任だった、と制作サイドが判断したからではないか?そう思うのです。

しかし、見返してみても色々な想像、夢想を掻き立てるいい映画でした。ふと思ったのは淑子さんの存在、、、、彼女がいなかったらゴウちゃん、園子さん、寺シン、全ての人が幸福になったのではないか?残酷ですがそんなことを考えたりもします。

今日はこんなところです。それではまた。

#キネマの神様

#沢田研二

#菅田将暉

#志村けん

#北川景子

#永野芽郁

沢田研二の怒りの魅力

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

上部へスクロール