西城秀樹 遥かなる恋人へ 福岡のファンがおこした奇跡(更新版)

こんにちは、みやけです。

今回は昭和歌謡曲についての”書き直し回”、西城秀樹さんに関するお話です。

以前に一度書いた内容なのですが、私のデータが消えてしまい閲覧不可能となったものですが、公開した際は大変多くの秀樹さんファンの方からお褒めの言葉を頂き、「書いた甲斐があった」とつくづく感じた思い入れの深い回です。特に新たな内容の上積は無いのですが、もう一度記憶を紐解き作成しなおしたいと思います。そもそもが子供の頃の記憶を絞り出して書いた回であり、同じことを繰り返すわけですが。。

何回も書いておりますが、私は沢田研二さんのファンです。しかし他のミュージシャンは受け入れないとかいう事は全くなく、特に昭和・平成歌謡曲の歌手でいくと、野口五郎さん、原田真二さん、太田裕美さん、渡辺真知子さん、渡辺美里さん、ウルフルズSMAP等も追い続けています。そして西城秀樹さんも、ジュリーほどではありませんが、ずっとリリース曲はチェックしていました。

そして当時の反応で強く感じたのですが、ジュリーファンと秀樹さんファンは共通点が多く、そしてお互いリスペクトしあっているなという事です。私が以前この回を公開した時も、全くやり取りの無かった秀樹さんファンの方から多くお褒めの言葉を頂いたのですが、ジュリーに対しても非常に好意的にとらえられている気がしました。他の歌手については結構厳しく見ているのですが、ジュリーに対しては「戦友」「リスペクトしてやまない兄貴分」的な思いがあるようでしたね。

さて今回テーマにするのは秀樹さんの出した「遥かなる恋人へ」という曲です。「ヤングマン」の前にリリースした曲ですね。太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」のアンサーソングという捉え方をする人もおり、故郷に残した恋人への想いを歌う歌です。非常に温かい気持ちになる歌ですが、売り上げ的には「中ヒット」くらい?ザ・ベストテンでの最高ランクは6位に終わっています。

そしてもうひとつ、私がヘビーリスナーだった福岡のローカルラジオ局「RKB」作成の歌謡曲ランキング番組。「RKBベスト歌謡50」がこの回の舞台になります。この番組は1974年から1995年まで福岡県内で放送されていたのですが、毎週日曜12時から17時過ぎまでの長い放送時間内で独自に集計したポイントで前週の歌謡曲についてベスト50をランク付けするという中々の大規模な番組でした。ちなみにRKBはTBSの系列局です。

通常のローカル局の歌謡曲のベストテン番組と言えば基本的には局へのリスエストはがきの枚数でランキングを決定するという事が多かったかと思うのですが、この番組はリクエストはがき以外にも、オリコンからのレコード売上枚数、有線放送リクエスト回数等を総合的に加味してランキング付けするという中々細かいシステムでしいた。

この事を聞いてピンときた方がいらっしゃるかもしれません、あの”ザ・ベストテン”がほぼ同じような方式を採用していましたね。というかベストテンの方が後発番組な訳でして、もしかするとRKBベスト歌謡50の方式をベストテンが流用したのではないかとも思いたくもなります。とにかく地方の番組にしては手の凝った番組だったわけです。そしてこのランキングに入る資格があるのは「日本人による作詞・作曲である事」という縛りがありました。これがポイントになります。

そしてもう一つ言えば、それなりに大きな規模で開催している為、地元歌手の「身内の組織票」もそれほど大きな影響を与えなかったということです。規模の小さい30分程度のローカル番組でしたらよく見られた風景でしたが、このベスト歌謡50ではそんな現象はほとんど起こりませんでした。もっと言えば福岡出身のメジャー歌手、郷ひろみ・松田聖子・小柳ルミ子・井上陽水・海援隊あたりの順位が全国のランキングと比べて極端に高い。とかいうことも無かったのです。

私は当時小学5年生だった訳ですが、友人が少なかったゆえ、せっかくの日曜日もあまり遊びのお誘いの声もかからず、結構な頻度でお昼から夕方までこの番組を聴いていた訳です。ただし別に「仕方なく」とかそういう事ではなく単純にこのようなランキング番組が好きだったからというのもあります。でもまあ、友人からの誘いがあれば遊びに出る事はありましたが。

そして、1978年秋「遥かなる恋人へ」が発売されました。作詞 竜真知子さん、作曲 馬飼野康二さんです。オリコン最高位8位、ザ・ベストテン最高位5位ということで「中ヒット」のイメージを残し、年が明けたあたりで各ランキング番組の上位からは姿を消していきました。この頃の「新曲」の寿命は約3~4か月。それを過ぎると次の新曲がリリースされそなるとランキング順位は急降下していきます。

秀樹さんのようにベストテンの常連の方はリリース3週目あたりでベスト10内にランクインし、(オリコン初登場で1位、とか3位とかが発生したのはマッチあたりから)6~10週間くらいランクを上下し、ベストテンから陥落すると毎週5~10位くらいでランクを落としていく、というのはパターンでした。「遥かなる恋人へ」も年明けから段々と消えかけていった印象があります。

そして2月21日に秀樹さんの待望の新曲「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」が1979年2月21日にリリースされました。この曲は発売前から相当話題になっており、結果は今更言うまでもないのですが、秀樹さん最大のヒットとなりました。しかしですね。この曲は洋楽のカバーだったのです。という事は「RKBベスト歌謡50」にはランキング入りの資格が無かったのです。

ご存じのようにザ・ベストテンではYOUNG MANは大ヒット、あっという間に1位に駆け上がり得点のMAXである9999点を出す等世間を席巻していました。しかしこの福岡でのRKBベスト歌謡50ではファンが行き場を失くしてしまったのです。ランキングへの資格がないわけですからリスエストはがきを書いても無効になる訳です。そして前曲「遥かなる恋人へ」は当然もうレコード売上げ等は期待できませんので、週を重ねる度にランクを落として行く訳です。その速度は通常より遅いように思えましたが。。。。

そして「YOUNG MAN」がベストテンで1位を爆走している最中、ベスト歌謡50ではちょっとした異変が起きていました。もう40位近くまでランクを落とした遥かなる恋人へが30位台に復活。3週に渡って35~39位の間で踏ん張っていたのです。既に新曲が発売された曲が前週より更にランクを上げる、、、ロングヒットしている演歌ならありがちでしたが、通常の歌謡曲では異例でした。更には3週に渡って踏ん張り続けてのです。

子供心に私は「秀樹さんのファンがYOUNG MANにリクエストできない気持ちを前曲にぶつけているのだなあと感じました。当時小学5年生の私には詳しいことは分かりませんが、福岡在住のファンクラブの会員やファンの横のつながりでもう1回「遥かなる恋人へ」の順位を上げよう!という取り組みがあったのかも分かりません。

でもリクエストはがきは何とかなったとしても「レコード売上」や「有線放送リクエスト」への影響はなかなか厳しいものがあったと思います。もちろん当時はSNS的なものもないですし、このような取り組みを拡散させることは中々ハードな作業だったと思います。しかしベスト歌謡50では31位以上の曲はリクエストはがきの内容が読まれることは無いので、ファンたちがどのような心境であるのか私には分かりませんでした。

その時、私はジュリーの新曲「OH!ギャル」よりこのベスト歌謡50の「遥かなる恋人へ」の動向が一番の関心事でした。(OH!ギャルはあまりに”狙いすぎの間があって、、、いまいちのめりこめなかった)秀樹さんファンの人たちの悔しい思いが、この”ランキング”という数値によって痛いほど伝わって来たからです。そして次の週、なんとランクは28位までUP!そしてパーソナリティの林幹夫さんがリクエストハガキを読んでくださったのです。

後述しますが、これらの内容は私の小学生時代当時の記憶を基に書いています。出来るだけ事実を補填するデータは集めているつもりですが、そもそもRKBベスト歌謡50に関する資料が少ない!なので私の思い違い、取り違いがあるであろうことはご了承ください

話を戻します。ハガキは2枚読まれその中身は「YOUNG MANにリクエストをできないくやしさ」「つながりのある秀樹ファンたちと連携していつもより多くリクエストはがきを出している事」「レコードももう一枚購入するよう他のファンにも呼び掛けている事」等が書かれていました。もう一枚のはがきには元々「遥かなる恋人へ」は素晴らしい曲なので、このまま静かに消えてしまうのはなんとも惜しいので頑張ってハガキを出し続けている」というような事が書かれてあったと思います。

そして翌週以降更にランクは上昇を続けたのです。一気にとは行かないまでも2つずつくらいでランキングを上げ最終的には21位まで再上昇したと記憶しています。言い方に語弊があるかもわかりませんが「役目を終えた曲」がもう一度ランキングを上げる」というのは相当に凄いことだと思います。その後もこの曲はYOUNG MANがランキングの上位にいる間しぶとく21~25位間にランクをキープし続けました。

パーソナリティの林アナもこの状況には心を動かされたようで、この曲の発表の時のハガキ紹介の際はより感情をこめていたように思いました。記憶する限り福岡更には他県の秀樹さんさんが出来る限り結束して「もう一度「遥かなる恋人へ」をベスト10に戻そう!」と動いている、というような事が書かれていたと思います。そしてこの状況について共感した秀樹さんファン以外の方も再びリクエストを始めた、というハガキも数多くあったように記憶しています。

そして5月21日、待望の新曲が発売されました。「ホップ・ステップ・ジャンプ」です。作詞:山崎光さん、作曲:水谷公生さん。もちろんRKBベスト歌謡50へのランキング資格は有していました。ザ・ベストテンでもこの曲は2位までランキングを上げヒットしましたが、RKBベスト歌謡50ではそれまでのうっ憤を晴らすかのように発売後あっという間にベスト10入りし、3週目で1位を獲得したと記憶しています。

秀樹さんファンの執念で「遥かなる恋人へ」「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」~「ホップ・ステップ・ジャンプ」がリリースされている間、常にRKBベスト歌謡50では秀樹のさんの曲が40位以内に入り続けることが出来たのです。しかも物語はこれで終わらず、「遥かなる恋人へ」は「ホップ・ステップ・ジャンプ」のヒット期間中もしぶとく50位以内に残り続け、「ホップ・ステップ・ジャンプ」が50位内のランクから消え去るのと同じタイミングで消えていったと記憶しています。

そして、年末。RKBベスト歌謡50も「年間ベスト50」なる企画もあるのですが、「遥かなる恋人へ」は最高位6位にも関わらず、半年近く40位以内をキープし続けたロングヒットにより年間ランクは3位に食い込んだと記憶しています。これはベスト歌謡50の年欄ベスト50での秀樹さんの最高ランクであったはずです。もし仮に「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)がランキング可能であったとしても年間ベスト50ではこのランクには及ばなかったかもしれませんね。

私はこの「遥かなる恋人へ」のランキングの推移を毎週ずっと追っていた気がします。いくら友達が少ない小学5年生とはいえ、春先の天気がいい日曜には多少は遊びのお誘いがあったとは思うのですが、なんだか人と人の心が煽られずとも自然に紡がれるのを目の当たりに見た気がして凄く心が動かされたのですよ。これまで書いてきたことは大半が私の記憶に基づくものですが、すごく細かい部分まで覚えているのはそれが原因です。

そして話はちょっと逸れるのですが、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」もまた「日本人の作詞作曲でない」という理由で煮え湯を飲まされてます。日本レコード大賞の規約にそれが引っかかり、この曲ではノミネート不可となり、秋にリリースした「勇気があれば」でのノミネートとなったのです。この曲もザ・ベストテンでは1位を取った曲ではあったのですが、インパクトにかけたためかレコード大賞はジュディ・オングさんの「魅せられて」が獲得しました。

「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」でノミネートしていればレコード大賞は取れたのか否か、それはもう分かるすべはありませんが、可能性は相当高かったのではないかと思います。「魅せられて」も確かに大ヒット曲ではありますが、「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」の方が更に大きなインパクトがありましたからね。そして残念なのは結局秀樹さんは日本レコード大賞を受賞する事は出来なかったという事です。

受賞については時の運なので仕方がないとは思うのですが、最大のチャンスの時に「魅せられて」にさらわれてしまうとは、、、ジュディ・オングさんにはちょっと申し訳ない表現をしますが、この曲、確かに良い曲ではあると思いますが、「女」をかなりウリにした曲ですからね、、、シースルーに近い衣装で体の線がくっきり見える衣装で、羽のようなヒラヒラを羽ばたかせながら妖艶に歌うのがウリの歌。。。

言っちゃあなんですが、エロさを前面に出して男性のスケベ心をあおるような歌に最大のチャンスを持って行かれたというのは、特に女性ファンとしては泣くに泣けないのでは?と思ったります。

以上が、私がずっと心に留め置いている「遥かなる恋人へ」について福岡で起こった奇跡、と私が記憶している話です。ただしこの話私の記憶に基づき書いている話なものですから、絶対に記憶違い・認識違いがあるはずなのです。ネットでも色々この件について検索したのですが中々引っかかるものが少ない、、、YAHOO知恵袋で少しあったのですが、、、、

もし何かこの点に関する「事実」をお知りの方がいらっしゃるのであれば、ご指摘いただくと嬉しいです。よろしくお願いします。

今日はこんなところです。それでは、また。

私の沢田研二論 令和版

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

上部へスクロール