ジャイアント馬場 上田馬之助”腕折り制裁試合”の真相を考える

こんにちは、みやけです。

今回は昭和プロレスの話です。ただしデータが全部飛んでしまった以前のブログにてかなり最初の方で書いた話をもう一度書き直す回です。それほど新しい内容を加筆した訳ではありません。プロレスマニアの間では何かと話題になりがちな「馬場 上田馬之助腕折制裁試合」の話です。

1983年全日本プロレスのエキサイトシリーズ最終戦後楽園大会にて開催されたこの試合、ジャイアント馬場がかねてから因縁のある上田馬之助と一騎打ちを行い、右腕に集中攻撃を行い亜脱臼させレフリーストップで快勝した試合、、、この内容が当時の全日本プロレスとしてはかなり異質な内容であったため「実は真剣勝負のガチ試合だったのではないか?」とプロレスファンの間では長年その裏事情が語られてきた試合です。

今では大方の”見立て”が固まってきており、今回私が語る内容よりもはるかに面白い推測を行っているブログは沢山あるのです。今回改めて各内容も「何をいまさら」と思われる方がいらっしゃるかも知れません。しかし生粋の全日本ファンの私としてはこの考察を既に2000年頃には確立させておりw、その事を2ちゃんねる(当時)等の匿名掲示板にて頻繁に書き込んでいました。

ですので、「この推測は私が前々から考えていたものだ!」等という大人げない事を大きな声で言うつもりはないのですが(ホントはちょっと言いたいw)それでもまだ他のプロレスマニアの意見を集約できなかった私の考えが現在出されている結論と方向性は同じなようですので、ここはやはり改めて文字起こしして私の存在感を示しておきたい、、、とまあ、なんだか良く分らん気持ちでまた書こうとしている訳です!w

背景】

それでは簡単に当時の状況を振り返ってみたいと思います。このシリーズ、馬場は全戦不参加の予定でした。前年のジャイアントシーズにてハーリー・レイスに奪われた自身の虎の子とも言えるPWFヘビー級のベルトをレイスの地元チェッカードームでリターンマッチを組まれたことに専念するため、という理由が当時語られていました。

もちろんそれが最大の理由であったのですが、「実験的に馬場抜きのシリーズでどれだけ採算がとれるか試してみる」という側面もあったかと思います。当時の全日本は数年前から長年の経営不振から脱却するため日本テレビから松根氏というずっと放映に携わっていた人物を社長として送り込まれていました。馬場のタイトル挑戦は(結果的に奪回)はシリーズ前半で終了しており、態々全戦欠場までしなくてよかったんですけどね。これは馬場側も「俺が出ないと客が入る訳ないだろう。そんなにそうしたいのならやってみたら?」的な突き放的心情もあったのかも知れません。

しかし、この欠場に異を唱えたのがこのシリーズ全戦参加予定であった”はぐれ金狼”上田馬之助!「馬場が欠場するのならシリーズに出ても意味は無いので、参加をボイコットする。馬場が出るのなら自分も参加してやる。」と全日本プロレスを脅迫したのです。

馬場はこの発言に激怒、「何があろうと興業ポスターに自身の顔が掲載されているのなら必ず試合には出場するべき」という考えを信条としており、日プロ脱退の際もこの思いを忠実に実行し離脱が決まっているのに1シリーズ休むことなく出場したこともありました。「ここらで懲らしめておかないとツケ上がるばかりだ」と思い急遽帰国。最終戦で上田とのシングルマッチを組んだのです。

この試合は通常の全日本の試合としてはかなり異色の内容となりました。前半戦はほとんどがグランドの展開でしたが、10分前後に上田が凶器攻撃を行うと、馬場が上田の右腕にアームブリーカーを連発!亜脱臼に追い込み、レフリーストップ勝ちを飾りました。当時の全日本の結果としては乱入、ジョー失神、そして行って来いでもない極めて珍しい完全決着となったのです。

そして馬場は試合後上田について「汚い手ばかり使う男だが、右腕が使えなくなっても左腕だけで戦おうとしていた。流石に力道山道場で鍛えられた男だ」と少し上田を見直すような発言を行ったとのことです。

謎の馬之助ブーム】

この前年末くらいからなぜかプチ”馬之助ブーム”のようなものが起こっていました。それもプロレス界内部ではなく一般社会からです。タレントなぎら健壱さんが上田の応援本「男は馬之助」を出版。それに続く形でお笑いトリオコント赤信号が同名のレコードをリリースしました。

その曲は当時大人気のバラエティ番組おれたちひょうきん族で初披露(1983年2月12日)、歌の最中に上田が突如乱入しなぜか3人を竹刀でどつきまわすというタレント顔負けの活動を行っていました。ただし私自身の当時の印象としては何かこうこの上田ブームは作られたものというか、マスコミ主導のもののように思っていました。

局地的に上田に声援を送るファンはいたようですが、後年発生した「百田ブーム」のようにそれが会場全体を巻き込んだムーブメントになるには程遠かったと思います。しかしプロレスブームもまだまだ続いていたので、上田自身が一般誌のインタビューを受けることも珍しくなく、少し調子に乗っていたのかも知れません。

異色の試合内容】

この試合が後年まで語られた理由のひとつに試合内容が全日本としてはかなり異色だったということがあります。3つほどそのポイントを挙げてみます。

① ロープワークほぼなし、当時認知されていなかったアキレス腱固めを双方掛け合う。

馬場のシングルにおいて、16文キックが出ない場合はたまにあります。フィニッシュはかわず落としで決めることも珍しくありません。しかし「ロープに振ってのカウンターチョップ」これは確実に出ます。基本的に馬場のプロレスは209cmの巨体をより大きく見せるような技で魅了していくものですから、ロープワークは必須の流れなのです。

しかしこの試合、腕殺しに行くまでの間ロープワークは一切ありませんでした。そして前半はお互い関節技を掛け合う攻防に終始したのですが、当時まだUWF設立前でファンにはほとんど認知されていなかったアキレス腱固めを掛け合う攻防があるのです。「何かが違う」そう思いたくなりますよ!

② エグ過ぎるアームブリーカー

この試合の後半、馬場は上田にアームブリーカーを連発します。それは大半がプロレスの範疇の技のかけ方だったとは思うのですが、2回目にはなった、上田を腹ばい状態にさせて自身の全体重を乗っけたアームブリーカーはかなり強烈です。いくら「力を入れていない」としても一瞬馬場がジャンプして宙に浮いた後上田の右腕に体重が乗っかったのですから、ダメージは無いはずはないと思います。リングサイドのお客さんもこの技には驚いているように見えます。

私的には「エグいのが1発だけだった」というのがポイントのように思えます。

③ シンの乱入を全日本セコンドが完璧にブロック

通常なら全日本のシン、もしくは上田のシングル戦は、試合が佳境に入ったところでパートナーが乱入して不完全決着、、、というのがパターンでした。この試合も馬場が腕殺しを連発している最中サーベルを持ったシンが乱入してリングサイドまで来るのですが、なぜか全日本のセコンドがシンを完璧にブロック。乱入を許しませんでした。

を通常ならセコンドが乱入を力ずくで阻止しようとしてもシンはサーベルで殴りつけてブロックを解いてしまうのですが、この時のシンは妙におとなしく、サーベルは振り回すだけでセコンドに振り下ろすことはありませんでした。

馬之助 馬場元子批判事件】

この試合が色々と物議を醸す原因となったのが上田が一般誌のインタビューにて馬場の奥方である元子夫人を批判したことであるのは間違いないと確信しています。たしか週刊プレイボーイだったと思うのですが、「全日本は女に牛耳られる情けない団体」とかなりのガチの批判を行っていました。

馬場は長年元子夫人とは内縁状態にあり、同年1月に行われたパーティー「ジャイアント馬場君をますます照れさす会」で夫人の存在を正式に世間に発表したばかり(マスコミ村の住人は周知の事実でしたが)。全日本を資金面で援助していくうちに色々と団体の方針に口を挟むようになったのは事実だとは思うのですが、それまで日陰の存在であったのがいきなり名指しで悪口を一般誌で言われたのですから相当頭にきたと思うのですよ。

上田自身は以前からインタビューを受けるたびに日本マット界が来日外国人にあまりに多くのファイトマネーを支払っていること等団体のトプにとってはかなり耳の痛い話をまくし立てる”ご意見番”的存在でもあったと思います。しかし流石にこの時点での”元子批判”は時期が早すぎたのは無かったかと思うのです。

しかもこのインタビューが掲載されたのは馬場の海外遠征中であったのですから、この批判は上田の革新的行動だったのか????

推測 元子の指示による馬場の馬之助制裁!

上記の状況からこの試合については以下のような推論を立てることができると思います。

上田が一般誌で元子批判。馬場夫妻は海外遠征中なのでその記事には目を通せないと思った→馬場の側近が記事を馬場夫妻に密告!→タイトル戦後はハワイで静養予定を切り上げて急遽帰国。上田のボイコット発言の言葉尻を捉え最終戦でシングルマッチを組む。

上田とのシングルは急遽「ガチ試合」で開催!馬場がシュートの裏技で上田を制裁!

・・・・・いやいやいや、流石にその推理はうがちすぎですよ!この試合それほど緊張感のあるものではなく通常のプロレスの試合です。「やるかやられるか?の真剣勝負」にはとても思えません。馬場の2発目のアームブリーカーは確かに強烈ですが、全体的に上田は馬場の攻撃を淡淡と受けているように思えます。随所でうまいこと防御しながら。。。。

そして後述しますが、その後の上田の優遇振りも解せないのです。本当にガチの批判で馬場夫妻側が激怒しているのなら、上田を制裁後全日本マットには上げないと思うのです。しかし上田は3シリーズ後に普通に参戦し、インタータッグ王座を奪取していますからね。。。。私の推測はこうです。

馬場は上田に対し、”落とし前”として

真剣勝負風の試合で完敗する事を飲ませた

ということではないかと思うのです。ご存知のように上田は極悪ヒールとしての顔の裏側として、「道場での実力も一級品」という面もあります。いわゆる腕っ節のつよさでは馬場や猪木さえも上回る、という声です。それがどこまでが真実であるかはともかく「本気でやれば馬場より上田のほうが強い」というイメージを一部のファンが持っていることはなんとも腹立たしかったことでしょう。

経営者として、上田の元子夫人批判を理由に契約を切ることは簡単だったとは思います。ただそれよりもこれをきっかけに上田をガチ風の試合で完敗させ「やはり真剣勝負でも馬場のほうが強い」というイメージを内外に持たせるほうが利が多い、そう判断したのではないかと思います。上田のより所を奪ってしまうほうが得策だという。。

アキレス腱固めの応酬やシンのブロック、エグいアームブリーカー等はこの試合を裏読みしている人に見せつけている感があるのですよね。そしてその後、上田はインタータッグを奪取し、特に干されることもなくそれから1年半に渡って定期的に参戦し続けました。インタータッグ獲得は無難に筋書き通りの負けざまを演じきり、その後は大人しくしていたご褒美、そう思うのです。

上田は1981年ジャイアントシリーズから1984年同シリーズまで3年に渡って2~3シリーズに1回程度の頻度で定期的に参戦し、常に2番手とのランクをキープし続けました。シングルのピンフォール負けは1回もなし。タッグでピンを許したのも3本勝負で1回、イリミネーションマッチで1回のみです。

私はハンセン、ブロディのようなあたりの強いレスラーと正面から連日戦うのが肉体的にしんどくなってきた馬場が、それから回避したいがために上田を重宝したと思っています。そしてその役目はラッシャー木村率いる国際血盟軍に引き継がれたという訳です。

上田馬之助とアントニオ猪木は性格的にどこかで通じあうものがあると思います。しかし馬場と上田は水と油、まったく性格的には相容れないでしょうね。3年間の間馬場は上田に対してブロディのごとくうまくなだめすかしてコントロールしてきたんだろうな、と思います。上田は1985年の長州力率いるジャパン軍と入れ替わるように新日本に戻っていきました。

全日本最後の出場となった1984年ジャイアントシリーズから2シリーズ後には新日本のマットに上がっているわけですが、上田の新日本復帰について当時契約問題でゴタゴタが発生したという記事にはまったく記憶にありません。あれだけ全日本と新日本がピリピリした状況の中なぜ上田があっさり復帰できたのか未だに不思議です。

ということでこれが私の「上田腕折制裁試合」についての考察です。しかしですね、全日本の試合において流れで突発的にぴりついた内容になったことは幾度もあったと思うのですが、このよう(私の推測が正しいとするなら)試合開始前からある種のメッセージが内蔵されたマッチメイクというのはこの試合くらいではないかと思います。

いずれにしても、実に面白い試合であることは間違いない!

今日はこんなところです。それでは、また。

さようなら テリー・ファンク! フォーエバー!テキサスブロンコ!

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