なぜ石川敬士は世界最強タッグに出場できなかったのか?完全版

こんにちは、みやけです。今回は昭和プロレスの話です。

1980年代の全日本プロレスにおいて”炎の旋風児”の異名を取りバイプレーヤーとして大いに活躍した石川敬士選手についての考察の回です。石川選手は何故か全日本プロレスの年末のビッグイベント「世界最強タッグ決定リーグ戦」には一度も出場することなく終わりました。ほぼ同格だったと思われるマイティ井上選手は国際時代を含め計4回、明らかに格下の鶴見五郎選手でさえも計4回の出場を誇るのですが、何故か石川選手は参加実績0なのです。

そのあたり深く調べてみようと思い、データがすべて消えてしまった前のブログでは同名のテーマで1985年分まで作成し「前編」としてupしたのですが、結構なプロレスファンの方に読んでいただけたようです。今回は心機一転!石川選手が全日本プロレスを退団した1988年まで計8年分を検証し完全版とし、「何故出場が叶わなかったか?」という点を年ごとに掘り下げてみようというものです。

全て記憶を掘り出しイチから書き直しておりますw。それでは、どうぞ!

1981年  参加チーム

馬場・鶴田組、天龍・原組、大熊・小鹿組、ファンクス、ブロディ・スヌーカ組、シン・上田組、レイス・ヘニング組、シーク・ルーイン君、ラシク・クラップ組

この年の石川は、スーパーパワーシリーズにて佐藤昭雄と組みエリック兄弟からアジアタッグ王座を奪取。プロレス転向以来4年目にして初のベルト戴冠でした。当然この年の最強タッグには出場する権利がありそうなものですが、実はこれまで現役アジアタッグ王者の参加は皆無。前年の1980年では日本人選手での参加チームは馬場・鶴田組のみという日本人勢にとって参加のハードルは非常に高かったのです。

しかしこの大会での大きなポイントは大熊・小鹿の”極道コンビ”が初出場を果たしている事です。この年の極道は特筆すべき活躍があった訳ではなく、それどころか長年保持したアジアタッグ王座から転落し無冠であり、ファイトのマンネリ化も顕著になっていました。アジアタッグ王者を見送り極道が初参戦、、、不自然な感じですがこの点について私が考えるのは天龍・原組の存在です。

この年の天龍はサマーアクションシリーズのインタータッグ戦抜擢において(ケガで帰国したディック・スレーターの代打)ようやくブレイクの兆しが見え始めていました。そして原は国際プロレス崩壊後、前シリーズに全日本への入団を表明したばかりでした。新日本主催の国際との対抗戦出場を蹴っての全日本入りです。当然このチームは全日本としてはプッシュしていきたい”推し”のチームだったと思います。天龍はもちろん、原もその切符の良い受け身っぷりで馬場夫妻からのお気に入りでありましたね。

しかし極道以外の他のメンバーを見てみるとすべて格上であり、(実際は最終戦でラシク・クラップ組に完勝)せっかく参戦しても全敗で終わる可能性もあり戦績的には低評価をされる可能性が大だったと思います。ですので緩和剤として極道を参戦させ負け専門要員を彼らに背負わせようとしたのではないかと思います。この役は石川組でもいいのかもしれませんが、馬場としてはこのチームも押していきたかったので穢れ役を極道に一気に任せたという。。。

極道も石川組も出場、となれば優勝に絡まないチームが日本陣営から3チームも出ることになり流石にそれは多すぎますからね。

ただし極道に対しても配慮を行い、天龍組とのリーグ戦でリングアウトながらも勝利を奪っているのです。このあたり「直接対決で天龍組に勝利」「アジアタッグ王者を抑えて最強タッグ初出場」という”アメ”と「リーグ戦で白星配給要員」「アジアタッグへの再戴冠はなし」という”ムチ”を使い分けるのは全日本の体質がよく現れていると思いす。

結論としては、1981年は石川・佐藤組と極道コンビの双方への配慮と天龍・原の今後の”推し”を考えた結果、石川組の参戦が見送られた、ということになりました。

1982年 参加チーム

馬場・鶴田組、天龍・原組・ファンクス、ハンセン・ブロディ組、レイス・スレーター組、リッキー・ジェイ組、上田・スーパーデストロイヤー組

この年は参加チームが7チームとやや少ない感があります。そしてこのリーグ戦には当初あの”神様”カール・ゴッチがビル・ロビンソンと組んで参加するプランがあったという話があります。新日一筋のイメージが強いゴッチが全日登場というのはかなり意外であると思うのですが、1970年代後半あたりからゴッチと新日本の関係は緩やかにではありますが疎遠になりつつありました。

若手がゴッチの修行先になるのも徐々にカルガリー地区にシフトして行っていました。特に猪木との仲が薄くなっていったようです。今年の正月にゴッチは”現役”として唐突に来日し、藤原・木戸らとエキジビションマッチを行いましたが、これはこの状況に意義を唱えたゴッチに対し新日側が妥協案的に微妙なスタンスでの来日をオファーしたのではないかと思うのです。

ゴッチと馬場もつながりはそれなりにありますし、自身の生活の安定を考えれば馬場からのオファーが本当にあったとしたら乗る可能性は高かったと思います。しかしゴッチのひざの状態はかなり悪く、正月の来日でも右足にぶっとい太さのサポーターを巻いていましたので長期のサーキットに耐えられたかどうかは疑問です。

この年の最強タッグの開幕戦。馬場・鶴田組は上田・デスト組に両リンで引き分けるのですが、当時から私は「このチームに引き分けは無理がある」と感じていました。この相手が上田組ではなくロビンソン・ゴッチ組だったとしたらしっくりくるのですよね。開幕戦は未知数の異色のコンビがが優勝候補を破るというのは鉄板ですので。。ガチコンビがBJ砲を関節技でキリキリ舞させリングアウトで破る、というのはなかなかいい構図です。上田組では役不足ですよ。

もっと妄想を広げれば大阪でのファンクス対リッキー戦は実はファンクス対ガチコンビであり、45分時間切れ引き分けに持ち込むも長丁場でゴッチのひざの故障が悪化、とどめは福岡国際センターの超獣コンビ戦でゴッチが膝への集中を受け無念のレフリーストップ負け&リーグ戦リタイヤ。。。。いい流れの妄想だとは思いませんか?w

話を石川に戻します。この年もアジア王座を守り切った石川・佐藤組がなぜ最強タッグに参加できなかったのか?

この参加メンバーだと優勝戦線に絡むメンバーが4組(BJ砲・ファンクス・超獣・レイス)とそうでないメンバーが3組な訳でここに石川・佐藤組入れば比率が半々になりあまりにバランスが悪いのですよ。しかしガチコンビが参戦し、上田組を除外すれば、上位4組・大穴1組(ガチコンビ)・下位3組となりまずますいいバランスなのではないかと思います。

ということで、この年の石川はゴッチ不出場の余波で泣く泣くエントリーから外された、という結論になる訳です。

1983年 参加チーム

馬場・ドリー、鶴田・天龍組、原・井上組、ハンセン・ブロディ組、シン・上田組、マスカラスBS、ウインダム・フラー組、鶴見・モンゴリアン組

この年の石川はパートナー佐藤の怪我によりアジアタッグ王座を無念の返上、原・井上の国際コンビに王座を奪われ返り咲きも叶いませんでした。シングルマッチの実績もマイク・デービスやジェリー・モローといったクラスの選手にもピンフォール負けを喫し、低調な1年ではなかったかと思います。しかし、この年の夏ごろから自身のトレードマークにもなる”スモーピオン・デスロック”を開発!(というかパクる!)翌年以降の飛躍に向け意義のある1年だったと思います。

この年の参加メンバーは上位3チーム、大穴2チーム、下位3チームとバランスが良かったと思います。マイティ井上は全日本入団後は初のエントリーです。

しかしこの時点井上はチャボからインターJR王座を奪取しておらず、原との”元国際コンビ”のスタンスに重きを置いていた時期、石川は欠場が多くなっていた佐藤とパートナーを解消する訳でもなく非常に中途半端な立ち位置でした。翌年のエキサイトシリーズにて井上は「チャボからのベルト奪取に専念するため」アジア王座を返上、原は石川を新パートナーに指名し改めてアジア王座を獲得する訳です。

井上の王座返上は渕の凱旋帰国直後のジャイアントシリーズでも良かったのではないかと思うのです。タイミング的に。そうすると石川は原とのコンビで最強タッグに出場できていたのかも知れません。私個人としては石川としては不本意な1983年が最大のチャンスだったと思っているのですが、叶いませんでした。理由としては井上のジュニア専念表明の遅れの余波で出場を逃した、、、ということでしょうか?

1984年 参加チーム

鶴田・天龍組、馬場・木村組、ファンクス、ハンセン・ブロディ組、レイス・ニック組、シン・ショー組、キッド・スミス組、ギャング・鶴見(ソイヤー)組。

参加メンバーの豪華さでは史上最強と言ってもいい1984年の大会。完全な”白星配給係”が1チームもないという凄いメンバーがそろいました。結果的にはソイヤー欠場で代役に鶴見が入りその役を担ってしまいましたが、そのままソイヤーだったら優勝戦線に絡むのは無理でも大物食いの可能性は十分あったと思います。

この時点石川は原とアジアタッグ王座についていました。馬場夫妻から可愛がられている原ですから、白星配給係不在のの大会では原・石川組での参加はそのままで行けば順当に実現したでしょう。バランス的にも違和感はないと思います。

しかしご存じのように原は前のジャイアントシリーズで、自身がプロモートする長崎大会直前で失踪。そのまま欠場を続けていました。原因は個人的な借金問題で取り立てが開場に来るようになってしまったことに耐えられなかったからのようですが、当時のプロレスマスコミの報道では「長崎大会が中止寸前になった」ことと「原の欠場」は分けて報道されていました。

というか、長崎大会は「プロモーターの失踪」が原因であり、原の欠場は「怪我の為」という風に報じていました。おそらく全日本側の圧力を受けたのか?このトラブル自体が大きく報じられず、問題視もされていなかった記憶があります。これは原がまだ中堅レスラーの域を出なかった事も理由のひとつだと思いますが、長州率いるジャパン軍参戦や馬場のミステリアスパートナー問題、キッドスミス組の電撃参戦等ニュースがてんこ盛りのこの時期、原の動向を気にするファンが少なかったことのこのニュースが大きな話題にならなかった理由のひとつだと思います。

全日本側としては、大きく盛り上がっているこの時期に大きなマイナスイメージとなるこのニュースはあまり報じられたくはなかったでしょう。という事で原・石川組が持つアジアタッグ王座は年明けにヒッソリ返上され王座決定戦が行われていました

そういえば当時新日本を席巻していたマシン軍に対し、1号=原説が結構流れていたのを記憶しています。この時点で原はまだ一流レスラーとは言い難かったと思うのですが、そのリングネームのインパクトの強さからはファンからの認知度は高く、「なんで原は最近テレビの登場しないのだ?あ、マシン=原では?これだけレスラーが移籍してるのだから」と考えたプロレスファンが多かったのでしょうか。

まあそれはそうと、石川にとって原の失踪は迷惑な話だったでしょう。ただし白星配給係不足のチーム編成ですから井上あたりをパートナーにして出場しても良かったと思うのですが、そうすると原がなぜ欠場しているか細かく説明しなければいけなくなるので、それならば原・石川組の存在はなかったことにしよう、と全日本サイドは判断したのかも知れません。

まとめますと、この年の石川は原の失踪というガチのパプニングについて、全日本側が大事にしたくなかったがため出場は見送られた、という推測です。

1985年 参加チーム

鶴田・天龍組、馬場・ドリー組、長州・谷津組、木村・原組、ハンセン・デビアス組、レイス・バー組、ニック・カート組、キッド・スミス組

この時点での石川は井上と組んでアジアタッグ王者でした。今度こそ参加を実現させたいところだったと思います。更にはジャパン軍との対戦で身体を張ったファイト内容が評価されその存在感がプロレスファンに大きく認知された1年でした。彼にとってもプロレスに入って最も充実した1年だったと思います。特に「天龍・石川対長州・浜口」のカードは好勝負必須の鉄板の組み合わせであり、エキサイティングウォーズから3シリーズ連続テレビマッチで放映されました。

しかし最も相性が良かった天龍と組むわけにはいきません。井上とのコンビでの参戦にしても全体で見れば8組中3組が日本陣営であり1組が日本人&外国人の組み合わせ。「最強タッグ」の華という点を考えれば追加で白星配給係の参戦は難しいところです。更に石川より格上のカーン・カブキ、ほぼ同格である浜口がエントリーしていないのですから、石川がこれを押しのけて入って行くのには無理があります。

結局のところこの年はジャパン軍参戦のあおりを食い参戦が見送られたように思います。

また、この年の最強タッグでは石川の地元・山形でテレビマッチが開催されたのですが、石川はシリーズ前半で怪我をしてしまいこの大会に参加できませんでした。この大会のオープニングでは馬場・ドリー・大熊対木村・原・剛というマッチメイクがなされ大熊が剛からダイビングヘッドバットでフィニッシュをとるシーンがありました。熊さんがテレビマッチで勝利した最後のシーンでした。

当時リーグ戦とは関係の無いマットメイクが急に成され大熊が勝ち名乗りを上げたのか疑問だったのですが、石川の怪我がなければここは大熊ではなく石川が入っていたはずであり、地元の知人の前で良いカッコを見せるはずだった。。。と思うのです。シリーズにエントリーしてたら意外な大物食いを行っていたかもしれません。

1986年 参加チーム

鶴田・天龍組、馬場・タイガー組、長州・谷津組、木村・鶴見組、マシン・原組、カーン・ゴディ組、ファンクス、ハンセン・デビアス組、マーテル・ジンク組

最終戦で輪島が東京デビュー戦を飾ったこのシリーズ。石川はこの前シリーズに井上と保持していたアジアタッグ王座をマシン・原組に奪われていました。カルガリーハリケーンズの参戦で前年よりはテレビマッチに出る回数は減ったと思いますが、輪島のトレーニングパートナーとして中継に登場する頻度は高く、存在感はアピールしていたと思います。

しかし参加9組中日本陣営が5組、混成軍が1組ですからここに割って入るのは前年以上に無理がある気がします。しかしこの翌年も参加した木村・鶴見組というのは資格の面でどうか?と当時の私は思いました。このチームが実際のリーグ戦で鶴龍コンビから反則勝ちを奪うのもかなり無理がありましたし、木村はともかく並みいる中堅選手を差し置いて負けっぷりが良すぎる鶴見が出てくると言うのが、、、鶴見のファイト自体は素晴らしいんですけどね。

という事でこの年は前年同様ジャパン軍・及びハリケーンズ参戦により日本陣営過多で参戦がかなわなかったと思うのです。

1987年 参加チーム

鶴田・谷津組、天龍・原組、馬場・輪島組、タイガー・仲野組、カブキ・テンタ組、木村・鶴見組、ファンクス、ハンセン・ゴディ組、ブロディ・スヌーカ組、ブッチャー・TNT組、ヤングブラッドBS、ジンク・ターミネーター組

この年の参加メンバーは84年に勝るとも劣らない豪華メンバー。石川自身も輪島の専属タッグパートナーとなり、およびアジアタッグ王者にも返り咲き充実した1年であったと思います。特にこの年の初夏から始まった”天龍革命”をある意味陰から支えたのは石川であると言ってもおかしくはなかったと思います。天龍から容赦なくボコボコにされた輪島が石川になんとかタッチすると石川が目の覚めるような鮮やかな動きを見せる、というシーンが何度もありました。この時期石川はコンディションが非常によく団体としては非常に使い勝手の良い選手だったと思います、

ではなぜこの年日本人側の参加チームが6組もありながらエントリーされなかったのか?私は「全日本側で売り出したい選手が多すぎて埋もれてしまった」からだと思うのです。

鶴田組、天龍組は置いておくとして、まず輪島です。デビュー以来輪島の正パートナーのイメージは石川の印象が強く、またその回数もそれを裏付けるはずだと思うのですが、輪島・石川組だと他のメンバーと比較し優勝戦線に残るのはまず無理。

逆に前年はタイガーと組んで出場した御大はこの時点明確なパートナーが決まっていませんでした。輪島はこの年夏ころからかなりの凋落傾向にはありましたが、谷津が加入する前まではギリギリ正規軍No2の座を保っていました。それぞれジリ貧気味の立場ではありましたが、タッグを組んでエントリーすればそのブランドでギリギリ優勝戦線に絡んでもおかしくなくなる。。。それぞれの立場をキープするため再合体したように思えます。

また、吸収したジャパンプロ勢への配慮からも、それまでジャパン軍No2として扱ってきた仲野は無碍にできないし、今年デビューしてまずまずの滑り出しを見せていたテンタも無碍にできない。今年から完全に日本に定着したカブキもまだ最強タッグには不出場なので無碍にできない(高千穂時代にはあり)、というように今年何らかのエピソードが発生した選手が選手が優先され、まじめのコツコツとやって来た石川がまたもや置き去りにされてしまったように思えます。

ただし、この時点ではまだ仲野は石川の位置までは及ぶべくもなかったと思いますし、レスラー期間中格が逆転する事が無かった鶴見がまたもや出場している、、、石川にすれば「もう俺は出場できないのかも」と投げやりにな気持ちになっていたかも知れませんね。

1988年 参加チーム

鶴田・谷津組、天龍・川田組、馬場・木村組、タイガー・スヌーカ組、カブキ・輪島組、高野・テンタ組、ハンセン・ゴディ組、ブッチャー・シン組、スレーター・リッチ組、スパイビー・エース組、ブラックウエル・ヒッカーソン組

この最強タッグ終了後に石川は輪島と共に電撃的に引退を表明し、全日本マットからセレモニーもなしに去って行ってしまいます。長年の最強タッグでの冷遇に嫌気がさしたのでしょうか、、、この年の石川は決して不調だったわけではありません。非常に良いコンディションを保っていたと思います。前年末から井上と組んで王者に君臨していたアジアタッグ王座は冬木・川田の”フットルース”の挑戦を3連続で受けついに王座から陥落してしまいますが、実は名勝負が多い全日本のアジアタッグ日本人対決の歴史においても秀逸で素晴らしい試合の連続だったと思います。

4人とも非常にプロレスが巧いのに加え、石川・井上組は憎らしいくらいの”強さ”を見せつけるヒールファイトを繰り出し、その中にも自身のテクニックを存分に披露しました。この組み合わせでのアジアタッグ戦は4回連続で行われましたが、どれも素晴らしい名勝負だったと思います。しかし4度目のリターンマッチにて反則で敗れた石川・井上組はその後一切アジアタッグに絡まなくなります。ちょっとこれは不思議でした。鉄板の名勝負製造マッチメイクだったのに。。。

その後フットルースは高野・仲野組やカンナムエキスプレスとの抗争に突入。全日本の方針として若返りが推し進められたと思います。井上に関してはその後インタージュニア王座に絡むことになりますが、石川に関しては不思議なくらいビッグマッチや特別試合から遠ざかるようになりました。夏の武道館で輪島と組んで馬場・タイガー組と戦ったのが印象に残るくらいであとは中盤戦での出場ばかり。冷遇されているようにも思えました。

この時期、馬場と輪島の関係も急速に冷えつつあったようですが、輪島にベッタリの石川も馬場的には煙たくなっていったのかも知れません。でもたまにテレビマッチに出るとまだまだいい動きをしていたのも事実です。サマーアクションシリーズⅡでの開幕戦、初来日のジョニー・エースのエースクラッシャーを見事に喰らい、エースがトップ外人に駆け上がるアシストをしたと思います。あの試合でのエースのインパクトはかなりのものでしたからね。

この年の最強タッグ、御大はラッシャー木村と”義兄弟コンビ”を組んでしまったので、輪島は石川と組んでリーグ戦参加が普通の流れだったと思うのですが、パートナーにはカブキが指名されました。カブキと輪島も結構タッグは組んでいましたが、やはり輪島のパートナーは石川が一番しっかり来ると思います。そもそもカブキのパートナーは高野でもテンタでも別に違和感はないわけで、石川にしたら「そこまで自分を最強タッグに出させたくないのか!」と疑心暗鬼になっても仕方がないかと思います。

石川はこの時の心境をいくつかの媒体で語ってはいますが「輪島さんが辞めるというからそれに従った。初めからそのつもりだった」的な発言をしていますが、どうもしっくりきません。そのような気持ちもあったとは思うのですが、自分自身も「肉体的には問題がないが居場所がなくなりそうだな」と実感が深まっていった1年だったように思えます。

石川選手は引退後も色々な会社の経営者、責任者を任されていたようで他のOBに比べればそれ程生活が困窮していたわけではなかったようにも思えます。実家はお菓子屋さんの名家であり、自身も日大の派閥で色々とコネがある、、、そういう「やめても困らない」ように見えるバックボーンが、全日サイドからは「まあ、石川は今回も参加は無しでいいか」的な雑な判断をなされたのかも知れません。カブキあたりは外されると真っ先にひねくれそうですからね。

私の結論としてはこんなところです。石川選手は全日本退団後、SWSやWARに参戦し、藤波辰巳からシングルでピンフォールを上げる等「あり得ない」活躍をします。その後天龍に反旗を翻し自身がエースとなり新団体を旗揚げしますがこれも私にはピンときませんでした。

私の石川選手の印象、、、ちょっと言い方は悪いですが

「自らをアピールすると似合わないんだけど、他人の為に黙々とファイトすると実にいい働きをする」

というものです。全然褒めていないようですが、個人的には凄い誉め言葉なのです!歴代の全日本エース、馬場・鶴田・天龍をはじめ、輪島・原・井上・佐藤・タイガー・カブキ・谷津、、、どんなタイプの選手と組んでも自分をアピールしつつパートナーも光らすことが出来るたぐいまれな選手だったと思います。それゆえに何故最強タッグには出れなかったのか?私の推測とは別な理由があるのか?

それがまたプロレスの面白いところです。それではまた。

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