人は長い晩年の方をどう過ごすべきか? ジャイアント馬場を見てのプロレス論・人生考

こんばんは、みやけです。

今回はプロレスを絡めての人生論的な話です。私の好きな故・ジャイアント馬場さんについて”世界の16文”と称された全盛時ではなく、40~50代の晩年の生き方について思う事を書いていきたいと思います。

何を書きたいか?少し具体的に述べますと、長寿社会となって来た現代では還暦で仕事をリタイヤしたとしてもその後の人生は20年、30年とある訳です。40年近く働いてもガンガン会社の中心となって働くのは30年くらいでしょう。そう考えれば成人となってからの半分、いやそれ以上はいわゆる”晩年”的な社会の中心からはちょっと離れた人生を送りがちになる訳です。

もちろんそうでない人もたくさんいるでしょう。確固とした自分の自分の生き方を見つけている人は全盛時も晩年も関係ないのかもしれません。しかし多くの中高年の方たちが40後半くらいのから社会や自身の私生活において徐々に徐々に身の置き場が少なくなっている事を感じてきているのではないでしょうかそして内心そうなるであろうことは薄々理解していても実際その状況に直面すると受け入れがたいことが多いと思うのです。

私自身、私生活は充実していますが、仕事はその逆。6年前にガンにかかり、なんとか乗り越えたとは思いましたが、会社からは”準戦力外”的な判断をされたようで、早々に役職定年的な扱いをされており、「体力も落ちてきたしもう自分が周囲を引っ張って行動する立場にはならないだろうな」とつくづく思っています。

ただ、56歳という年齢は、まだまだ老け込む年では全然ないですし、健康が回復すればもっともっと新しいことに取り組もうという気概はあるのですが、「俺はまだまだ若い!」なんて意気込んで昔のように自分を追い込んで行動しようとは思わなくなりましたね。「自分のやれる範囲でやれることをやって行けばいいんだ。そしてそう生き方をしていれば今まで見えなかった事、楽しく思える事が見えてくるんじゃないか?」そう思うようになりました。

さて、本題のジャイアント馬場さんの話に移りたいと思います。馬場さんは1960年、昭和35年にプロ野球・読売巨人軍の選手を経て日本プロレス入り。当時としては異例の高身長とその体格を生かしたプロレスセンスで瞬く間にトップクラスの選手にのし上がります。2度のアメリカでの修行を経て1965年にはディック・ザ・ブルーザーとのインターヘビー級王座決定戦に勝利し、名実ともにプロレス界のトップにのし上がります。

その後、日本プロレスのエースとして大活躍した後、独立し全日本プロレスを旗揚げ、1974年にジャック・ブリスコを破りNWA世界ヘビー級王座を獲得したあたりがギリギリ真の全盛期と言っていいのではないでしょうか?その後1982年に新日本から引き抜いたハンセンと一騎打ちを行ったあたりまで全日本プロレスのトップとして君臨しました。

その後緩やかに下降線を描きながら1985年に福岡スポーツセンターでハンセンに敗れ虎の子のPWFヘビー級王座から陥落。以降はタイトル戦線から退き、1999年に亡くなるまで現役を続けますがその間は前座でラッシャー木村と組み大熊元司や永源遥らと楽しいプロレスに身を置くことになります。

ザックリ切り分けると全盛期9年(ブリスコ戦まで)移行期間11年晩年14年となる訳です。ほぼほぼ全盛期と同じくらいの晩年の期間があった訳です。

馬場さんの全盛期は毎週、一時は複数回テレビのゴールデンタイムに登場し、プロ野球の王、長嶋、大相撲の大鵬、北の湖に匹敵する有名人であり子供たちのあこがれの対象であったと思います。しかし全盛期終盤の1970年代半ばから体調的にも優れない状況が続いたためか、試合内容が低調となり、そして肉体的に筋肉がげっそり落ち始め説得力に乏しい風貌になったため、辛辣な野次を飛ばされることが多くなります。

移行期間にあたっては、鶴田・天龍ら後継者の育成が中々進まなかった為、肝心なイベントでは馬場が先陣を切らざるを得ない状況になり、たとえNWA王座奪取のような結果を出したとしても「ノロマ」「鳥ガラ」等と全盛時の雄姿が帳消しになるようなキツイ指摘を受ける事が多くなりました。これはある意味年齢の差で優位に立った猪木ファンたちのハラスメントであったとも思っています。

「馬場と猪木はどっちが強いのか?」正直私はあまりこれに興味は持っていません。このテーマでは今でも口の泡をとばして猪木最強説を捉える方がいらっしゃいますが、普通に考えて年の差がかなりあるのですから、馬場全盛時は馬場が強かったと思いますし、猪木全盛時は猪木が強い、で受け止めればいいのではないかと思います。むしろ大人であるならばそれぞれの魅力、いい点を好意的に評価し「闘えばどちらが強いか?」という点についてはもっと肩を抜いた見方が出来ないものかな?と感じます。

もう人生の半ばを過ぎた方が、未だに「如何に馬場が弱く人間的にも下劣だったか」を力説し、最終的にそれに対しての猪木さんの素晴らしさで締めくくる様を見ていると凄い幼稚なものを感じるのですね。もっと言えば自分の人生のコンプレックスやうっ憤を解消するためにジャイアント馬場という格好の分かりやすい標的を見つけて攻撃しているように見えます。今の社会においてあそこまで人を追い詰め、貶めるのは通用しないでしょうに、、、。

話がそれましたが、晩年の馬場についてです。1985年に無冠となって以降、馬場は前座で自分と同じような年代の選手たちといわば「初っ切り」のようなゆるい試合をするのが常となり、ハンセンのような”当たりの強い”選手とはたまにしか対戦しなくなります。猪木のような”名誉横綱”的存在となり間隔をあけコンディションを整えた上で負担のかからない相手とスポット的に戦う、という選択もあったとは思いますが、馬場はそれを選択しませんでした。

ハレの武道館でも、地方の野外会場でも同じようなメンツで同じような試合展開を繰り返しました。1990年、世界最強タッグ決定リーグ戦での函館での試合中、馬場は場外に転落した際左足を骨折。そのまま引退もささやかれましたが懸命のリハビリで翌年夏には復帰。しかしそのダメージはやはり深ったようで、自身の最大の見せ場であるロープに振ってのカウンダ―の16文キックは打てなくなります。

ロープにもたれかかり、相手が突っ込んでくる所に足を差し出すパターンでしか16文は成立しなくなりました。キックを打つ際左足で踏ん張れなくなったからだと思います。しかしそのような状況に陥ってもそのパターンを10年近く継続し最期を迎えるわけです。その馬場の姿に対し「過去の栄光を汚す行為」であるとか「あのような姿を成立させることはプロレスというジャンルを汚している」という批判も多く聞かれました。

しかし馬場はスタンスを変えませんでした。何故変えなかったのか?日テレとの契約の問題や自身の体調、元子夫人の意向等理由はいろいろあると思います。これは私が勝手に考えたのですが、馬場さんは現状を受け入れる事の重要性、そしてその行為が自分にとって向いている事を感じ取ったからではないかと思います。私もつくづく身に染みるようになりましたが、現状を冷静に分析して等身大の自分を受け入れる事は批評に辛いことです。

特に「謝ったら負け」と考える性格の人には耐えられない行為のはずです。「凡人群の中に埋もれるのなら世界一の大泥棒になる方がいい」的思考の猪木さんには受け入れがたい事でしょう。しかし馬場さんは横並びの群衆の中からのし上がりたくてプロレス入りした訳ではないはずです。自身のたぐいまれな体形を活かすにはプロレスしかないと考えたようですから、馬場さんのプロレスには「怒り」があまり感じられません。

これが猪木さんと大きく違うところ。猪木さんは明らかに生き方のベースに「怒り」があり、馬場さんは「プロレスはプロレスだよ」という考え。後年別の意味でこの発言が拡散されましたが、馬場さんの生き方を考えると職業観にもぴったりはまります。単純にプロレスをビジネスと捉えているわけではなく純粋にそのジャンルを突き詰めようとしている感じです。

人は前よりできなくなったことを受け入れれば精神的には楽です。焦ることは少なく成ります。自分を受け入れることが出来ず、そのギャップに焦り・怒りを覚え、それを別の形で八つ当たりしようとする人は如何に多いことか!晩年幸せそうに悠然としてリングに上がり続けた馬場さん、そして空気がよどみながらもなんとなく居心地のいい全日本のマット・雰囲気。馬場さんの自分を受け入れる精神が反映されたからではないかと思います。べbb

食通で知られ、日本中いや世界各国の多種多様な美味しい料理を食べてきた馬場さんでしたが、晩年ツアー移動中にマクドナルドのフレオフィッシュを初めて食べ「世の中にはこんなおいしいものがあったのか!」と驚き、マックを見つける度にフィレオフィッシュを購入していた、という話が私は好きですね。受け入れる人だからマックのフィレオのおいしさにも素直に感動できるのだと思います。

そういえば馬場さんの後年のタッグパートナーを務めたラッシャー木村さんもまた全盛期以上に晩年が長い人でした。凱旋帰国して日本で初めて金網デスマッチを行った1970年を全盛期の始まりとするなら、国債の崩壊の1981年がその最後、計11年が全盛期。猪木と連日闘いUWFに移籍し全日本に登場し「アニキ!」発言の1988年までの6年が移行期間。ノアに移るが腰を痛めた為長期欠場に入る2003年までの15年間が晩年という事になるのでしょうか?

国際で連日金網デスマッチを行い血をドバドバ流していた頃。更には毎シリーズのように猪木との一騎打ちで蔵前国技館を満員にしていた頃、と義兄弟コンビで悪役商会と対峙する全日本マットではどちらが幸せだったのか?自己顕示欲が薄そうな木村さんでしたら後者の状況が幸せだったのではないかと思います。これは人の性格によって違うと思いますが、馬場さんや木村さんのようなタイプの人間はそうだと思うのですよ。

私が良い年をしても相変わらずプロレスが好きなのは(今のプロレスはほとんど分かりませんが)、色々な状況が人生の縮図となって現れるからです。プロ野球のような数字至上主義の世界なら相当な大選手でない限りそのプレイに人生を感じさせるのは難しいと思います。しかしプロレスは戦い、勝敗だけでなく各レスラーのたたずまい、動きから人それぞれの人生を感じ取ることが出来るから面白いのです。

プロレスはそのジャンルの特異性の為選手はかなりの高齢になっても現役を続けることが出来ます。ですので自身が恒例になった時の状況にも照らし合わせる事が出来るのではないか?そんな風に思います。

今日はこんなところです。それではまた。

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