ディック・マードックを馬場はどう評価していたのか?(前編)

こんにちは、みやけです。今回は久しぶりにプロレスの話をしたいと思います。今回は初の書下ろし!(笑)”テキサス・スーパーロデオマシーン” ディック・マードックについての検証企画です。かなり長くなりそうなので2回に分けて書いてみたいと思います。

新日本時代のマードックについては沢山動画も残っていますし、昭和プロレスファンの印象もまだまだ根強く脳に焼き付けられているかと思います。しかし全日本時代は創立以来10年近くエース格外国人として来日しながらそれほど印象に残る試合が無い、、、というか少ない。

というか「一体何のために来日したの?」と言いたくなる様な参戦歴がやたら多いのです。maマードックの全日本時代の実績を リストアップすれば

・ジャンボ鶴田からUN王座を完全ピンフールで奪取!

・ブッチャーとは人種的な問題で絡みがNG。基本的に同じシリーズの参戦は不可

・オープン選手権に腕っぷしの強さを乞われ(対猪木要員)参戦、好成績

・キラー・カール・コックスとのド迫力殴り合いマッチ

・ハーリー・レイスのNWA王座に挑戦

・・・だいたいこれくらいで終わってしまい、馬場との因縁はほとんど思い浮かばないのです。(PWF王座には1回だけ挑戦)というか中々衝撃の事実があるのですが、地方会場を含めて馬場とのシングルマッチは1回しか行われていないのです!

御大からすれば「もらう給料分以外の仕事はしないレスラー」かつ「やろうと思えばどんな技もこなしてしまう天才型レスラー」という顔を持つマーおじさんな訳ですが、今回はマードックが全日本に参戦したシリーズでのビッグマッチをひとつずつ検証し、改めて馬場からはどんな評価をされていたのか?更にはマードックが再三日本側からの参戦を希望したのはどういう理由だったのか考えてみたいと思います。

それではすべての参戦歴を洗っていきたいと思います。

1回目 1973年10月~ 創立1周年ジャイアントシリーズ

全日本プロレスが設立後1年経ってから初参戦となったマードック。同年6月にはダスティ・ローデスとともに”ジ・アウトローズ”として国際プロレスに参戦しています。戦績的にはストロング小林のIWA王座に挑戦し負けはするも2フォールは許さず。ノンタイトル戦のシングルでは完勝。草津・井上には完勝したが浜口とは時間切れ引き分け、と馬場的にはギリギリ許容範囲の内容だった気がします。

このシリーズはエース外人として全日程参加。しかし前半戦にはファンクス、マスカラスが参加しており、その中ではほとんど目立たず、後半戦彼らが帰国してからは残ったメンバーがイヤウケア、モロウスキー、ブラッシーとなったためようやくエースの扱いを受けている感があります。

しかしこの中でマードックが完全にエース外人として認識されていたのかは微妙です。それが如実に表れているマッチメイク・結果があります。

10月15日浜田市民会館  馬場・デストロイヤー(2-1)マスカラス・マードック

①マスカラス(13分12秒片エビ固め)デストロイヤー ②デストロイヤー(10分35秒体固め)マスカラス ③馬場(3分16秒体固め)マードック

マードックが決勝フォールを奪われており、これでいくとマスカラスはマードックより格上ということになります。マスカラスはまだスカイハイブームが来る前ですが、このシリーズからデストとの因縁がはじまっており、簡単に傷をつける事は出来ない選手。

とはいえ、マードックも後半のエースを務めるのであるなら簡単に決勝フォールを奪われてはいけない選手なのではないでしょうか?普通に考えれば3本目はリングアウト絡みか不透明決着であるべきかな?と思います。実はこのパターンは直後の飯塚大会でも発生しています。この時点ではマードックは”暫定エース”的な立場だったようにも思います。

このシリーズのマードックは馬場・鶴田(デビューシリーズ)とのシングルマッチは無し。最終戦のセミ前でデストとシングルマッチを行い、時間切れ引き分け。とりあえず顔見世的な意味合いが強い全日初登場ですが、それほど大物扱いはされていなかったように思えます。

やはりまだ参戦したばかりの国際での扱いが「超大物」とはいかなかったので、ほとぼりを覚ます為?大々的な売り出しはしなかったのか?と思ってしまいます。

  

2回目 1974年2月~ エキサイトシリーズ

雷大王”ジン・キニスキーが後半戦1週間特別参加。後はネルソン・ロイヤル、ダッチ・サベージ、エディ・グラハムといったメンツが脇を固めるメンバーです。キニスキーが来日するまではどう考えたってマードックがエースですよね?

しかしキニスキ―来日まではほぼ全戦メインのタッグマッチに出場。全く大舞台は用意されません。そしてここでも決勝フォールを奪われたりもします。

3月5日宮崎市ヘルスセンター横広場 馬場・クツワダ(2-1)マードック・サベージ

①サべージ(12分4秒体固め)クツワダ ②クツワダ(6分17秒体固め)サべージ ③馬場(6分45秒体固め)マードック

、、、、当然サベージよりマードックの方が格上なわけで何故決勝フォールを奪われなければならんのか。。。そしてキニスキーは来日第一戦、宮城県スポーツセンターで馬場のPWFに挑戦するも2フォール奪われ完敗します。そしてこのシリーズの大会場はここのみなのです。

マードックは最終戦静岡駿府会館にてメインで馬場と一騎打ちを行いますが、反則がらみで敗れます。しかしこの時点ではキニスキーはもう過去の人の色合いが濃くなっており、むしろ満を持したマードックがタイトル挑戦すべきかと思うのですが、馬場にとっては色々と音があるキニスキーの扱いを優先してしまったのでしょうか???

3回目 1974年8月9日~  サマーアクションシリーズ2

蔵前国技館 デストロイヤーの覆面世界一決定戦の2人目の刺客”ザ・トルネード”として登場。反則がらみで2-1で敗れます。この試合のみの参加となります。

当時の全日本の外人としては半年後という比較的短いスパンで登場。もしかしてトルネードの来日を見越して前回の来日は無難なマッチメイクで温存したとでもいうのでしょうか?トルネードはかなりの強さを見せ、デストは完全決着とはなりませんでした。

トルネードの中身は識者にはバレバレだったようです。今後のマードックとしての来日にマイナスにならない様、無様な負け方をさせなかったのかも知れません。

4回目  1974年10月18日~  ジャイアントシリーズ

このシリーズのマードックはついに馬場の持つPWF王座の挑戦権を手に入れます。挑戦会場は中盤の東京・大田区体育館。なお、最終戦(沼津)では全日本初参戦のブラックジャック・マリガンの挑戦も決まっていました。同シリーズにはドン・レオ・ジョナサンも参戦あり、それぞれ集客に未知数な面を考慮して3人のエース格を揃え保険を掛けたような印象があります。

この内最終戦にタイトル挑戦するマリガンについては超大型という事もあり、期待値をこめての抜擢だったのかもしれません。国際でタイトル歴があるとはいえ、やはり日本での格はマードックが一枚上だったと思います。

マードックも挑戦するとはいえ、2連戦の初戦というのはタイトル移動の可能性は低そうに思えます。マードックが勝った場合はおそらく最終戦はリターンマッチになるでしょう。売り出しかけているマリガンの機会を奪い取ることになる訳ですからね。

この時点、意外と全日本の外人勢は早くもブッチャーだよりになっていた感があります。日本プロレス時代馬場のライバルであったキニスキー、ブラジル、エリックあたりは衰え、レスリング、ルーイン、イヤウケアあたりもPWFをかけての抗争を行うには役不足。本来ならまだまだ若いマードックを売り出しても良かったと思うのですが、早くもある程度見切られているような感もあるのです。

このタイトル戦、マードックは馬場の回転エビ固めで敗れてしまいます。どうやらこの動画は残っていないようですが、フィニッシュだけでも見たいですね!ゴングで画像だけは見ましたが、、、馬場の回転エビ固めなんてこの試合くらいじゃないでしょうか、、、

この後最終戦に登場したマリガンはストレートで馬場に敗れてしまいます。その後全日本への登場はなし。動きがかなり緩慢だったようで、馬場からは合格点が出なかったようですね。ただし、私のバイブルと化している馬場の著書「16文が行く」ではマリガンについて以下の記載があります、

レスリングは一通りこなしたが、武器としていた黒手袋をはめてのパンチは身体も大きく力もあっただけに素晴らしい力を持っていた。ブラックジャックスで比較するとランザより明らかに上、しかしパンチ一発に頼りすぎて思ったより大成しなかった。~

ちなみにこの本が書かれた時期は新日本に登場したマリガンがマッチメイク的に雑に扱われた時期で(大阪府立での試合を外される)意趣返し的にこのような書き方をしたのかもしれません。

5回目 1974年11月22日~ NWAチャンピオンシリーズ

言わずと知れた馬場がジャック・ブリスコからNWA世界ヘビー級王座を奪取したシリーズです。参加メンバーはその他ケン・マンテル、パット・オコーナー、クリス・マルコフら。そしてマードックも「前シリーズの負け方には納得がいかない」ということで異例の連続参戦が実現します。最終戦の川崎市体育館で挑戦が決まりました。

前シリーズのタイトル戦の内容は動画も残っていないので良く分りませんが、なんだか取ってつけたような内容です。しかしどう考えてもこのシリーズの主役は世界王者のジャック・ブリスコ。マードックと馬場の因縁は特につくられることもなく、中堅とのシングルマッチ、もしくは中堅選手をパートナーにしてのタッグを黙々とこなします。もう既にこの時期からこのパターンばかり。。。

そしてマードックは中盤戦の日大講堂大会のタッグマッチ(デスト・小鹿対マードック・スヌーカ)で腰を痛め以降欠場、タイトル挑戦をクリス・マルコフに譲り急遽帰国してしまうのです。これってなんか流れに無理があるような気もするんですよね。

もともとブリスコが来日するまでのエースは別の選手が予定されていたが、何らかの理由でドタキャン。やむなく「手っ取り早い」ので前シリーズに来日していたマードックに連続を参戦を依頼し快諾。(ただし前半戦のみ)しかし当時は異例の連続参戦には何らかの理由図つけが必要と思い、リターンマッチ云々をでっち上げた、、、こんな気がするのです。

いずれにせよ結果的にではありますがまたまた「何しに来たのか良く分らない来日」をこなし連続参戦は締まらない結末に終わるのです。

6回目 1975年11月14日~ ジャイアントシリーズ

 マードックは盟友ダスティ・ローデスを帯同し”ジ・アウトローズ”として全日本初登場。その他は後半1週間にブッチャー、その他はケン・マンテル、バディ・ローズ、ジャック・エバンスといったメンツですから完全にアウトローズが主役のシリーズです。

アウトローズは開幕戦で馬場・クツワダ組をストレートで破ると、その後は連戦連勝!中盤のヤマ、札幌中島スポーツセンターでインタータッグ戦に標準を合わせます。しかし観客動員が上向かない!開幕戦の後楽園ホールの観衆は1600人。以降中国~中部地方の中小会場中心のサーキットだったということもあるのでしょうが、2000人前後の観客に終始します。

札幌中島の動員も3000人と低調。しかし札幌以降ブッチャーが参加すると一気に動員は上向き平均4000人前後の観客を集める事になります。アウトローズは全日本においての以降の来日もなく、特に待望論も起きていない事から両者は馬場から”集客力のあるエース外人”としては見切られてしまったのかもしれません。

後、マードックとローデスの扱いはほぼ同じだったのですが、札幌中島のインタータッグ戦では鶴田とマードックが1本ずつ取り合い、3本目は馬場がローデスから取っています。次のオープン選手権を考えても、見切られたのは”ジ・アウトローズ”及びローデスということでしょうか。。。。

マードックにとってこのシリーズは珍しい「自分の為のシリーズ」だったと思うのですが結果を残せなかったと思います。

7回目 1975年12月6日~オープン選手権

ご存じかと思いますが、同時期に新日本でマッチメイクされた猪木対ビル・ロビンソン戦に対抗するように企画されたと噂されるもの。執拗な猪木の対戦要求に対して、「本当は自分の所の興行を投げ捨ててまで全日本の興行に参加する気などないはず。ならば参加オープンの大会を企画するので、そんなに私と闘いたければこれに参加すればいい。」という訳です。

猪木が参戦しないであろうことは思いつつも、有事の場合に備え、馬場と対戦する前に猪木をつぶす為に、いわゆる”ガチンコ”に強いメンバ-が厳選されました。ジョナサン、レイス、レスリング、大木、そしてマードックといったあたりがその「括り」でしょうか?

しかしあまりに本格派のメンバーばかり揃えたため、”悪役”たる存在のレスラーが極端に少なく、ブッチャーのパートナーにハマりそうなのはせいぜいケン・マンテルくらい。やむを得ずでしょうが、シリーズ中ブッチャー・ジョナサン組、更にはブッチャー・マードック組という通常では考えられないマッチメイクが実現しています。

12月12日鈴鹿市立体育館 デスト・〇木村(13分21秒体固め)ブッチャー・●マードック、、、、これでマードックを負けさせなくても。。。

この中でマードックは鶴田・デスト・木村を上回る8点を挙げ、堂々4位に食い込みます。(1位馬場、2位ドリー・ブッチャー同点)このマードックの健闘は当時のプロレスマスコミにもかなり評価されたようです。

しかし内容的にはいわゆる”強豪”とは当たっていません。上位3人との対戦は無し。その他大木・木村と両リン、鶴田・デスト・オコーナー・ホフマンと時間切れ引き分け、草津にピン勝ち。ヘーシンクにリングアウト勝ちといったところであり、金星がなく時間切れ引き分けでコツコツ点数を高めた感があります。

面白いのは、上記の”ガチ”メンバーが武道館で開催された「力道山13回忌追悼大会」を最後にマードック以外は全員帰国している事です。「もし猪木が来るとしたら武道館、もしくはその前の大会だろう。ロビンソン戦が終わって武道館大会の後帳尻合わせ的に来るようなみっともない真似はしないはず。」ということでしょうか?

私の演繹的推理を発動するならば’(笑)「しかしもしもの事を仮定して念のため後半戦にはマードックを残しておこう。」といった事ではないかという気がするのです。そしてこのビッグイベントに参加しつつ”対猪木要員”として最後までスタンバってくれたマードックには上位入賞のご褒美を挙げた、、、という気がしなくもないのですよ。

しかしそうであるなら、上記にあるように地方のタッグで木村にあっさり負けているのが気になるところです。これはこれで、馬場から不本意なピンフォール負けを喫してしまった木村に対して、4位のマードックからピンを取らせ、屈辱を緩和させる、、、という目的があったのかも知れません。

いずれにしても、全日本唯一のリーグ戦参戦は実りの多いものだったと思います。個人的には攻めるばかりで全くプロレスの攻防が出来ないヘーシンク相手に「ダメだこりゃ!」的な表情を再三見せていたシーンが印象的です。

8回目 1977年5月2日 NWAチャンピオンシリーズ

この勢いをかって次の来日では、一気にタイトル戦線を荒らしまわる、、、多くのマードックファンはそう思ったはずですが、、、半年後という比較的早いスパンで来日したにも関わらず、このシリーズではまたもやただただタッグマッチをこなす日々を過ごしてしまいます。

マードックは前半2週間の特別参加、その後の2週間はNWA王者のテリー・ファンクが参加します。その他はホースト・ホフマン、バリアントブラザースといったところ。誰が見たってマードックの参戦期間は彼が大エースなのですが、目立つ大一番は熊本のセミで鶴田と一騎打ちを行って時間切れで引き分けたくらい(テレビ収録があったかは不明)。

そもそもテリーとの世界戦を控え勢いに乗りたい鶴田がその前にシリーズ前半戦エースのマードックと闘い引き分けというのは今一つ煮え切らない結果だと思います。鶴田の立場を考えればここはスカッと勝ちたかったでしょうし、マードックに気を遣ったのなら、空き家状態の馬場と荒っぽい試合をやればいいのです。

以降マードックの「もったいない来日」が更に増えてくる訳ですが、通な全日本ファンでもテリーが世界王者として来日したシリーズにマードックが来ていたのを記憶しているファンは少ないような気がします。

9回目 1976年11月9日 スーパーパワーシリーズ

半年後に早くも9回目の来日を果たしたマードック。少なくての年に2回は来日する全日本の常連としての確固たる地位を築き始めます。しかしこのシリーズのエースは中身がキラー・カール・コックスの”ザ・スピリット”。スピットはシリーズ中盤馬場とのPWF戦でマスクを剥がされ完敗します。

そしてシリーズ最終戦の日大講堂大会で訥々にマードック対コックスのシングルマッチが組まれるのですが、これが大きな評判を呼びます。両者ともブラスナックルでのパンチだけで試合を組み立てる、見方によっては単調に見える試合ですが、プロ中のプロの2人が動きに巧みに緩急をつけながら、観客の心理を掴みコントロールしていく非常に見ごたえのある試合です。

しかしこのシリーズ、マードックは全戦参加していながら、ほとんど目立った動きがあありませんでした。馬場とコックスとのPWF戦が行われた九電記念体育館でこれまた唐突にロビンソンとのシングルマッチが行われ時間切れ引き分けになったのが目立つ程度です。興味深いカードではありますが、突然やられても、、、という感じです。

そもそも、このシリーズは前半戦コックスが目立ちまくっており、その他後半戦にはブッチャー、ロビンソン、大木、クリス・テーラー(初来日)とスター選手がテンコ盛りで参加しており、態々マードックを呼ぶ必要があったのか?非常に疑問です。

その甲斐あってか最終戦の日大講堂は12000人の超満員となった訳ですが、マードック対コックス戦はセミ前のデストロイヤー対レオ・バークの更に前の試合というアンダーカードで行われており、これまた扱いが雑なんです!

と、前半はこんなところです。次回の後半では、ビッグマッチは増えつつも「目的のない来日」は更に加速します。私は全日本のシリーズ歴史上最も話題に乏しいシリーズ、と呼んでいるシリーズがあるのですが、そのシリーズのエースもマードックが務めています。

更にはそれなりのギャラを払っていたマードックをそれなりの待遇で扱った馬場の思惑は何だったのか?全く証言、証拠もなしに完全な憶測で推理を行いたいと思います。今日はこんなところです。それでは、また。

私は ”人間風車” ビル・ロビンソンが嫌いです!

「ディック・マードックを馬場はどう評価していたのか?(前編)」への1件のフィードバック

  1. ピンバック: ディック・マードックを馬場はどう評価していたのか?(後編) – CMBO相談室

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