東洋の神秘 ザ・グレート・カブキの”格”を考える(後編)

こんにちは、みやけです。今回もプロレスの話です。前回書きました”東洋の神秘”ザ・グレート・カブキの”格”について検証する企画の後編です。全日本プロレス時代でくくりましたので、NWA世界挑戦からSWSへの移籍までの間の話になります。

それでは、早速続きを始めましょう!

1983年2月に衝撃の凱旋帰国を果たしたザ・グレート・カブキですが、次の日本帰国は半年後のジャイアントシリーズ。前半2週間の特別参加になります。開幕戦後楽園大会を含めテレビマッチは3試合に出場。いわき市大会ではタッグでブロディとの絡みはありましたが、ビッグマッチは特にありませんでした。

カブキ再渡米直後に大阪府立体育館での興行が行われ、メインは鶴龍対超獣コンビのノンタイトル戦、セミは馬場対キラー・ブルックスというイマイチのカードで、観客動員も5000人と冴えませんでした。ちなみに翌シリーズ最強タッグ開幕戦で再度府立大会は開催され、観客動員は超満員となっています。

なぜここで無理やりにカブキを大阪まで残留させなかったか謎ですね。そして、何年か前に出版された昭和プロレスの検証本にて、1983~84年の全日本プロレスの視聴率を全て列記した企画があったのですが、83年に関してはカブキが登場した放送日は確実に通常週より1~2%数字がいいんですよね。

例えば、何週か連続で8%台だったものが、カブキが登場するや9.5%とか10%になるという。。。マッチメイク的にしょぼくてもです。ですので日テレ的にカブキはどんどん登場してもらいたかったと思うのですよ。その思いが通じたのか、カブキは翌シリーズの最強タッグに後半戦に再度登場し、同時に参加するNWA世界チャンピオン(その時点ではハーリー・レイス)に挑戦する事が発表されました。

全日本にとっては伝統あるイベントの「世界最強タッグ決定リーグ戦」では基本リーグ戦のみ行われ、タイトルマッチが行われることは過去ありませんでしたので、特例中の特例処置でした。それは馬場逝去まで引き継がれました。(ジュニアヘビー級王座のタイトルマッチ開催はあり)

そして、その間NWA世界王座はレイスからリック・フレアーの元に移ります。カブキは最終戦の蔵前大会でフレアーに挑戦することが正式に決まります。カブキは帰国第一戦のの名古屋大会で初来日のバリー・ウインダムを難なく一蹴します。

しかし、フィニッシュの正拳突きに行こうと、トップロープに飛び乗って腰掛けた際、バランスを崩して後ろに転落しそうになります。なんとか持ち直しましたが、”東洋の神秘”にしては中々カッコ悪いシーンでした。

そして問題のフレアー戦。カブキとしては東京での初のビッグマッチです。しかし緊張からかカブキの動きが今一つ。フレアーのノラリクラリとした戦術に引き込まれ、中々一気に攻め込めません。

結局、特別大きな盛り上がりを作れないままフレアーがジョー樋口レフリーを暴行しカブキの反則勝ち。王座移動は無し、という結果になりました。やはり百戦錬磨のカブキも母国日本の大会場での晴れ舞台という事で緊張があったのかも知れません。明らかに体が動いていませんでしたから。

そしてあくまで私の体感ですが、この試合をきっかけに全日本サイドの”カブキ推し”もやや落ち着き、天龍の更なる格上げにシフトしたような気がするんですよね。翌84年、カブキは4シリーズに参加しましたが、ビッグマッチは夏の札幌中島での上田馬之助とのシングルマッチのみでしたから(上田が”テングー”のペイントで試合に挑んだ試合)

入れ替わるように天龍がUN王座を戴冠しましたので「カブキは天龍より上ではない、あくまでゲスト的立ち位置のNo 4」という立場にしたかったのかもしれません。それでもこの年もタッグを含めてピンフォール負けは無し。そして何故かスタン・ハンセンと同じシリーズに参加することは中々実現しなかったのですが、参加6回目・グランドチャンピオンカーニバル3にしてようやくハンセンがエースのシリーズに参加が決まりました。

終盤戦の福岡スポーツセンター大会では「特別試合」として馬場・カブキ対ハンセン・スミルノフがマッチメイクされ、告知でも(カブキ、ハンセンと初対決!)と煽られました。※メインは鶴田対マーテルのインター戦、セミは天龍対スレーターのUN戦。

そしてこの福岡大会に至るまで、カブキとハンセンはタッグを含め一切交わることはありませんでした。私はこの福岡大会を見に行ったのですが、全く事前の絡みが無かったという事で「本番の福岡ではかなりの絡みがあるのか?」と期待していました。

この試合は当時の中継では放映されず、後日のCS放送でも公開される事は無かったですね。結論から言うと、カブキとハンセンの絡みはあるにはありましたが、せいぜいハンセンがカブキをコーナーに振り、突っ込んだところにトラースキック!というお決まりの見せ場はありましたが、それほど深いものはなかったですね。

やはり、蔵前でのPWF戦を見据えて、馬場とハンセンの絡みが中心の試合展開でしたね。放送されなかったのも何か政治的な理由があった訳ではなく、単に淡白な試合だったからだと思います。

そして翌85年ジャパン軍が参戦すると、不定期参戦のカブキはどうしても影が薄くなり、やむなく?夏のダイナマイトシリーズより外国人側にスタンスを変えることになります。しかしターゲットが明白でなかった為、今一つインパクトを残せませんでした。

そして86年、新春ジャイアントシリーズの天王山、東京体育館大会のセミで三沢タイガー対ダイナマイト・キッドのシングルマッチがいったんは決まりましたが、キッドがWWF参戦の為ドタキャン、タイガーの相手には凱旋帰国したばかりのサムソン冬木が名乗りを上げました。しかしその冬木もシリーズ中怪我をし、試合は白紙に。

やむなく、タイガーの相手にカブキが名乗りを上げます。これはですね、冬木の怪我は嘘だったとは言いませんが、「東京体育館のセミで冬木は弱い!」と内部から疑問視されたのではないかと思います。冬木はこの時点では正規軍サイドに所属しており、単にかつてのライバルだから名乗りを上げただけで、闘う必然性は無かったですからね。

何かこう、カブキのネームバリューを雑に利用した、という感が無くもないのです。結果この戦いは3戦目の7月の両国大会でようやくタイガーがカブキをフォールし決着がつきます。そしてこれがザ・グレート・カブキとしては初のフォール負けになるのです。

しかし、具体的にはカブキがタイガーをバックドロップで投げたが、タイガーはコーナーポストを蹴ってカブキのブリッジが崩れる、タイガーはカウント3ギリギリで肩を挙げ、下敷きになっていたカブキが肩を挙げられずフォール負け、という言い訳がましい勝利でした。

デビュー以来それなりに全日本、日テレから推されながらも中々殻を打ち破れなかったタイガーなのでここはすっきり勝たせてもいいのではなかったかと思うのですが、やはり御大は「ここでカブキが後輩に完敗するということは、引導を渡すに等しい」と躊躇してしまったのかと。。。あと、この3戦目の直前、富山大会(ノーテレビ)でカブキはタイガーからフォール勝ちしてるんですよね。忖度。。。

しかしカブキの凄い所は、試合の序盤タイガーの首投げを受けた際、左手を下に身体を着地させてしまい骨折、骨を折ったまま試合をやり切った事です。その瞬間はよくよく見ると激痛に顔をしかめていますが、結局試合を最後まで成立させたのは大したものです。

この怪我の影響もあり、以降カブキは年内全日本には登場せず、翌新春ジャイアントシリーズに久しぶりに参戦します。そして前年から国際血盟軍と共闘したのですが何故か恒例の新春バトルロイヤルでラッシャー木村と殴り合いをはじめ仲間割れ、結果あっさり全日本本体復帰を果たすことになります。

正規軍加入後間もなくデビュー直後の輪島とタッグを決定。ツアー中も輪島・石川と行動を共にすることも多かったようです。八戸大会ではペイントを落とした素顔でテレビマッチに登場、ややこのまま中堅に埋没する感もありました。

ではこの本体復帰前後でのカブキの格はどうだったのか?御大はランク外にするとして。。。

鶴田>天龍>>>輪島>タイガー=カブキ>石川=井上>渕>園田

といったところではないかと思います。

天龍との差は流石に開きましたが、タイガーとの関係は微妙。タイガーはまだメインのチームリーダーとして、最後を任せられる力は無かったですからね。ジャパン軍が去り、フリーを含めて合流した選手、谷津・原には抜かれていますが、それ以外の選手には抜かれていないイメージがありますね。

という事はやはり、トップグループ(鶴田・谷津・天龍・原)のすぐ下というポジションであり、これは結局高千穂・カブキ凱旋時代とそう変わったものではないことになります。実に不思議な選手ですね。※輪島には抜かれていたが最終的には同格?

そして天龍同盟が本格始動。谷津以下ジャパン軍残党が全日本入り。カブキのスタンスは中堅選手として他の選手をフォローする役回りが増えてきます。しかしそれでも易々とピンフォール負けを喫する事はありませんでした。

外国人で言うと、ハンセン・ブッチャーにはたまに負けても、それ以外の選手(ゴディ、キッド、シンあたり)からのフォール負けは無し。中堅相手には川田・冬木のフットルースには数回負けたものの、それが継続することはありませんでした。

特筆すべきは革命中、あれだけ天龍とはガンガンやりあったものの、フォールを奪われたのは1988年の世界最強タッグ決定リーグ戦が初だったのです。この時はカブキのパートナーが輪島だったのでそうならざるをえなかったのでしょう。

その後の1989年サマーアクションシリーズ、天龍と抗争真っ最中のジャンボが右足負傷の為3大会欠場します。その内の2回、カブキは谷津をセミに抑え、チーム―リーダーとしてメインに登場するのです。

7月8日北見体育センター 天龍・〇ハンセン・川田(15分13秒 体固め)カブキ・テンタ・●小橋

この時期、上に記したようにカブキはやや中堅どころにシフトしており、メインのチームリーダーは3大会全て谷津でいいのではないかと思うのですが、ここでカブキを起用しているのはやはり御大の信頼があり、急に引き上げてもしっかり仕事をしてくれる、という思いがあったからではないかと思います。

全日本の場合、「シングルタイトルに挑戦する事」よりも「チームリーダーとしてメイン登場」すること価値があるように思えます。それは地方大会であっても。ちなみにタイガー戸口・石川敬士・三沢タイガーは最強タッグを除けば、チームリーダーとしてメインのタッグを任された事ははありませんでした。(戸口についてはシングルメインはあり。石川のミズーリ王座挑戦、タイガーのビッグマッチはいずれもセミかそれ以下)

しかしそれと同時に、後進に道を譲ることも増えてきました。ファミリー軍団に組み込まれ、永源・渕・大熊組と”楽しいプロレス”に関わることも増えていったのです。カブキもその頃は40代に差し掛かっていましたから、体重が増えた天龍の重たい攻撃や活きのいいフットルースと連日絡むのはきつくなっていたのかもしれません。

そして1990年スパーパワーシリーズ開幕戦の東京体育館大会。天龍離脱直後の大会では御大が殺人魚雷コンビの猛攻にピンフォールを奪われてしまったのですが、カブキはと言えば、ラッシャー・マイティと組んで永源・大熊・渕組と対戦。直近まで天龍同盟とバチバチの試合をやりながらもそのような状態だったのです。

しかし、その後天龍のみならず他の中堅選手もごっそりSWSに移籍したため、否が応でもカブキは戦いの最前線に連日復帰せざるを得ませんでした。スーパーパワーシリーズはまだ中堅が残っていましたが、翌サマーアクションシリーズで大量退団。。。。

あの時の全日本は本当に苦しかったと思います。戦いのレベルはなんとかキープしていましたがとにかく人員が足りない!外国人選手を大量導入しても計6~7試合組むのが精いっぱい。ほぼリタイア状態ながらも、過去の恩義で決して第一試合に出ることは無かったザ・デストロイヤーも、第一試合で孫のような年の差のリチャード・スリンガーのキックを受けてましたからねえ。。。

ジャンボのタッグパートナーも不在となったので、カブキがその役に指名されます。御大も薄々”天龍派”であるカブキの離脱は想定していたかも知れませんが、「世界タッグ戴冠」「複数年の契約の契約金」で縛れる、と思ったのかも知れません。

しかし、どうもカブキの気持ちは最初から「移籍」で固まっていたようですね。スーパーパワーシリーズ中盤の後楽園大会では鶴田・渕と組み、三沢・小橋・田上相手に見事なベテランとしての動きを見せていたのですが、サマーアクションシリーズ終了後(世界タッグ戴冠直後)に事務所を訪れ辞表を提出してしまいます。

この時点では、全日本サイドは残った全選手に引き留めの為複数年契約を提示し契約金の渡しており、それを無碍にするようなカブキの行動です。流石にこれは常識的に見てあり得ないですね。全日本もさすがに契約金の返還を求めたようです。

カブキ側の理屈としては「日プロの分裂の際、出ていくレスラーに対して、残るレスラーが制裁を加えるような事があった。そうならないよう移籍者が全員出て行ってから最後に自分が動いた」と語っていましたが、これは苦しい言い訳でしたね。

サマーアクションシリーズでは移籍者は谷津を除いて全員姿を消しており、制裁を行おうにもできなかったですからね。谷津については引き抜きの誘いがあった話ではなく自身で連絡した、という話ですし。

ただし、疑問に思うのはこの話は馬場さんが亡くなられたあと、結構最近出てきた話なんですね。聞く側は明らかにすぐわかるおかしい事を話しているのに突っ込まないんでしょうか?プロレスレジェンドインタビューあるあるですね。

結局このサマーアクションシリーズ限りでカブキは全日本を退団。SWS・WAR、更にはインディを流れ歩き全日本に復帰することはありませんでした。その間も新日本プロレスに出場し、”息子”のグレート・ムタのIWGPヘビー級王座に挑戦する等確たる実績を残しています。

そろそろまとめに入ります。全日本入団からカブキへの変身、そして反逆。更には秘めた実力者として若手を鍛える中堅稼業、実に目まぐるしく立ち位置が変化したカブキですが、結局「NO 3には至らないも、負け役にはならない」ポジションをずっとキープしていた印象ですね。

その間、すっと上司は馬場だったわけですが、「信頼はしつつも、トップレスラーとしての限界」は冷静に判断していたように思います。阿修羅・原が全日本を解雇され、1989年世界最強タッグに穴をあけ、天龍派パートナーに川田利明を指名しましたがこれは当時の全日本の体質を考えれば相当にあり得ない事だったと思います。

結果、最終戦の武道館や天王山の札幌では川田の大奮闘でしっかり成立しましたが、当時アジアタッグを取ったり取られたりレベルの川田抜擢というのは凄い選択だったと思います。あの時、バチバチにやりあいながらも天龍とはどこかで通じている雰囲気があったカブキの越境的選択の方がベストなのでは?と当時リーグ戦が始まってから思ったものです。

しかし皮肉なもので、大量離脱によって、おのずとカブキは鶴田・三沢に次ぐNO3になったのですが、カブキはそれを蹴って移籍してしまうのですから、面白いものです。これもまたプロレスなんでしょうね。

カブキは現役引退後居酒屋を経営。近年はそれもリタイヤされたようです。プロレスイベントにはたまに出席されているようですが、長年の肉体へのダメージで動くのも難儀しているように見えます。大変少なくなってしまった「全日本系語り部」ですので、長生きしてもらいたいものですね。

今日はこんなところです。それでは、また。

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

上部へスクロール